他人に愛されるためではなく
自分に愛される自分であるよう生きること。
今日はふっとそんなメッセージが降りてきた。
AC的には、
親のために生きてきた自分は、もう自分のために生きていいのだ
というワードはしばしば考えてきた。
この○○のために生きるという「ために」という慣れ親しんだ表現に「愛する」という言葉が入ると、ほとんど似ている表現ではあるにもかかわらず、途端に次元の異なることのように感じられ、我ながら不思議な感じがした。
これまでの私の課題のフェーズは「自己批判をやめること」であり、そこから、「自分の味方であること」「自分の機嫌を取ること」というように、難易度を上げていく必要があった。
しかし長いこと「自己批判」「自罰感情」のレベルを脱することができないでいたので、「愛する」という言葉を自分に向けて使うことが無かったのだ。
最近の御仁とのことで、自分を深掘りして向き合ってみたことで、自分が如何に御仁ありきで、御仁への愛情という言葉の裏で、自分を蔑ろにし、傷つけてきたかを目の当たりにした。
さらに御仁を愛するには、まず自分を愛することが必要だということが段々とわかってきた。
あるいは、自分を愛するというより、自分に愛される自分であることと言う表現がしっくりくる。
恐らく愛している、愛していないというdoingではなく、自分に愛される自分というbeingが、より俯瞰的であり、やったやらないという行動ではなく、存在そのものであることが本質を表している気がして、急に腑に落ちたのだ。
頭でなく、体感として。
なので、今日は自分に対して「愛」という言葉を向けてみたというわけだ。
そうすると、そもそも自分が御仁を愛するために生きているわけでなく、自分を愛するために、自分に愛されるために生きているのだと理解できたと同時に、御仁は私を愛するために生きているのでなく、御仁は御仁を愛するために、御仁に愛されるために生きているのだということが、急に降りてきた。
だから、私が御仁に対して、あれしてくれない、これしてくれないという発想自体がおかしくて、まずは自分が自分にあれこれしてあげるのが大切なのだ。
自分がとことん自分を愛して、ご機嫌に生きる私のことを、もしも御仁が一緒に過ごしたいと思うことがあって、たまたま共に過ごす時間があったら、その瞬間だけを味わえばいい。
決して、一緒に過ごさねばならんということはない。
それでも何か御仁に頼む必要のことがあれば素直に伝えて、もし御仁がやれないなら、
「あっそう、わかった。おけ。」以上
ってことでいいのだと思う。
出来ないとか、してくれないことと自分への愛情や価値を測る必要は一切ない。
するもしないも、相手の人生であり、相手の決断だから、私には関係ない。
他人の仕事を奪ってはいけない。
今年の私の課題は、
自己批判を止める→自分を愛する
というさらに高い次元になる。
そして、他人の仕事を奪わないこと、他人が考えるべきことを自分に持ち込んで悩まぬよう徹底することである。
昨年末からの御仁とのごたごたで、毎年年越しの日付変わりのLINEをしないことを決意し、そわそわしつつもやり過ごした。
さらにインスタにある新年投稿にいいねしないもんねえ〜と思いつつ、ざわざわしながら夕方を迎えた。
しかし段々とそわそわザワザワに疲れてきて、そんなストレスを抱えていること自体に疑問がわいてきて、そんなことに拘る時間、私は私を幸せにしてるのか?私は私に愛されているのか?と問いかけると、「自分の人生を他人に乗っ取られてる感じで、幸せじゃないわよー」という声が聴こえた。
そんな自分の声に従って、さっさとインスタにいいねをし、この件から離れる決断をした。
インスタのいいねひとつの決断に、一日中あるいは年末からの数日間という長時間を要し、人生の大切な時間を消耗してしまった。
まだまだ結論に至る考えの整理にもやたら時間を要しているが、修行のプロセスゆえ致し方あるまい。
これからは、これまで自分に蔑ろにされて傷だらけの自分に向き合い、丁寧にゆっくりと自分の心の声を聴く時間を費やす覚悟だ。
これからも浮きつ沈みつ、一喜一憂の波は立つだろうが、自分の課題の次元が上がっていることを大いに喜び、新しい年の幕開けを楽しもうと思う。
2024年 元旦