吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分の声を聴くということ

自分の声を聴くということ

最近ようやく少しだけわかってきた気がする。

 

このブログにも、『自分の声を聴く』と書いておきながら、今までは本当にはわかっていなかった。

自分の中にある声が、自分のものではなく、親から与えられた恐怖に汚染された声だったことが、ようやくわかってきた気がする。

30代でカウンセリングを受けるようになって、『自分の感情』に向き合うことになるのだが、自分の口から出てくる言葉を、自分が聴きながら、どこか自分のものではないという違和感をもっていた。

それから時を経て、自分の苦しさを生み出す傍には、親から与えられた恐怖に汚染された声があることに何となく気づいていった。そして自分が自分を責めることを少しずつ手放せるようになった。それでも生きづらさからすっかり解放されたわけではなかった。

 

次のステップは、自分が自分の本当の声に従って日々を過ごすということだった。

 

私は、これまでの自分の生きづらさからどう抜け出していいのか、穏やかな生き方はどのようにもたらされるのか、自分に経験がなく見本もないので、よく本を読み学んだ。読むごとに、なるほどそうかとわかった気になっていたが、実行できたかというと現実的には難しいことが多かった。

 

『いらっとすることやもやもやする出来事がなぜ起こるのかというと、それはあなた自身がそれを吐き出す必要があることを知らせるためだ』

とある記事に書いてあった。

 

これまでの私は不快な出来事が起こると、自分の何がいけなかったのだろう、次にこのようなことが起こらないために、自分は何を改善すればいいだろうということ、つまり自分に非があることを前提で考えていた。そんな自分にとって、この記事はとても新鮮だった。

つまり、まずは不快だと思った自分の感覚を肯定すること、肯定するために『むかついた~』という感情をありのままに吐き出すことの大切さを記していた。

 

そうこうしているところに、御仁との間でとても不愉快な出来事が起こった。

実は以前より気になっていたことなのだが、嫌われるのが怖くて、いつもものわかりのいい人を演じる私は、自分に生じた不快な感情を抑えることにエネルギーを費やした。

また「強い人間になりたい」という自分の人生のテーマは=「感情をコントロールすること」が大切ということであり、これは強い人間である御仁との間の共通する話題だったのだ。けれど、感情をコントロールすることと、感情をなかったことにすることは違うということが、最近までよくわからなかったのだ。それがようやく、感情は自然にわいてくるものだから、それは仕方がない。ただし「いらっ」としても、それに拘らず流すことが大切なのだという会話をしたことがあった。そこから、「負の感情を口に出してはならない」という歪曲した考えに陥っていたのだ。

 

あー、でも「言わない」のと「言えない」のは違うな。私の場合、明らかに「言えない」という心境に陥っているなと思った。

 

私が吐き出しの記事を知った後に、今回の不愉快な出来事があったことは、わたしにとっては絶好の機会だった。これまでだったら、私の感情はせいぜい「この不愉快な出来事が起こって私は悲しい」というにとどまっていただろう。しかし、「悲しい」に留まることだって、ちょっといい人ぶっているといえる。もっともっと自分の声を聴くならば、悲しいの奥には『強い怒り』がくすぶっていたからだ。

今回の不愉快な出来事には、相手にこそ言わないが、私は自分に沸き起こった『怒り』をしっかりと自覚した。

 

むかつく、むかつく、むかつく

 

ACで苦しむ人間は、毒親の声に支配されたり、そこから抜け出したとしても次は毒親が世間に置き換わって、世間を恐れる世間病に陥ると指摘されている。

私は毒親を抜け出し、世間病からも抜け出した気になっていたが、気が付いたら御仁病だったのだと気づいた。

 

私は御仁に盲目の尊敬を抱いていたのだ。

「いつでも御仁は私より正しい」

「御仁の生き方に少しでも近づきたい」

「御仁をいらつかせないようにふるまおう」

 

今回の不愉快な出来事は、こんな風に御仁を盲目的に尊敬するあまり、私の中にある本当の自分が「そろそろ窒息しますよー」ということを知らせてくれるためだったのだと感じる。

親も世間も、私を幸せにすることはできない。

私が御仁を敬愛していることは事実だが、御仁は私を幸せにすることはできない。

私を幸せにできるのは、私だけだ。

 

そんなことは、これまで山のように読んだ本には書かれていて、わかっているつもりだったけど、今回の不愉快な出来事のおかげで、さらに高い次元で理解できた。

 

私はメールやSNSを素速く返信する。それは、反応が遅いと相手が寂しい気持ちになったり、悲しい気持ちになったりするのではないかと思っていたからだ。一方、他人からの返信が遅いと「礼儀がなっていない」と怒りが生じたりする。

今回の不愉快事件をきっかけに、「私の気持ちは、・・・」といろいろな場面で確認してみた。すると上記の返信スピードで寂しい気持ちや悲しい気持ちは、他人の気持ちではなく、私の気持ちだった。だから、他人からの返信が遅いと怒っていたのだ。礼儀がなっていないというのは表向きの言い訳であり、私がよく父親に責められた常套句であり、そこにある本当の私の気持ちは、自分がスルーされたような怒りや悲しみだった。

 

「私が素早くメールを返信しないと相手が悲しむ」

「もし私が●●しなかったら、あの人は●●になってしまう」

 

あー、これはAC的な他人の人生の責任を背負い込む典型だ・・・。

 

というわけで、今回の不愉快な出来事は、私に私の気持ちを点検するスキルを習得させてくれた。

 

これまで御仁に逢った後は、すばやく御礼のメッセージを送っていた。もちろん、御礼の気持ちあるのは事実だが、送らないで礼儀しらずと責められたくないという恐れがあったことも確かだ。

なので先日は友人と一緒に御仁に逢うという機会に御礼メールを送らないという実験をしてみた。その時、自分の気持ちがどのように感じられるかを観察したのだ。「送らなければ」OR「送りたい」のどちらだろうかという視点で自分の感情を眺めた時、しばらくは「送らなければ」という送らないことに対する後ろめたさのような、落ち着かなさを感じたが、そこはぐっと耐えた。ねばらならないではなく、「送りたい」という自分の心からの欲求が強くなれば、送ろうと思ったのだが、それほどでもなかったので、今回は送らないことにした。

自分の感情を日々素直に感じられる人からすると、何とももどかしいプロセスではあるが、何十年もやったことがない私にとっては、赤ちゃんが初めて歩くことを学ぶがごとく、こんな風に少しずつ練習するのが肝要だ。

 

自分の声を聴くということは、習得すべきスキルなのだ。