吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

体調不良というギフト

今月に入り、立て続けに県外出張という強行スケジュールと

その仕事で落ち込む出来事があったために

かなり疲労していた。

 

さらには溜まった仕事を仕上げるために、

ほぼ終日デスクワークでこんを詰めクタクタになっていた。

倦怠感や眩暈という更年期症状を脱したと感じ中断していた漢方薬

貪り飲んだ。

 

そのうち口角がピリッとしたかもと思いつつ就寝した翌日は、

案の定、口唇ヘルペスらしい水泡が出来上がっていた。

教科書通りの「THE 免疫力低下症状」

 

ヘルペスは過去にも経験あるが、その際は水疱が気になる程度だった。

しかし!今回は違った。

水泡どころか全身倦怠感と胃腸症状が酷い。

胃と腸がしぶって痛い。

何だかアニサキスにでもかじられてるのではと思うくらい、痛いのだ!

そして、先週も今週も仕事には行くが、週末は臥床している。

 

そろそろ御仁から連絡来るかもしれないが、

この体調では逢う気にならないため、断りのセリフを思案していた。

とはいえ、お声はかかってないから、まあええかという気分。

そこでふと子どもの頃のことを思い出した。

 

私は乗り物酔いが酷く、修学旅行でも、教員の隣で横になって過ごした。

普段自己主張できない子どもであったし、

大人の顔色を気にしていて、つねにアンテナ貼って自分の外側をパトロールして疲れていた。

しかし、乗り物酔いでぐったりしているときは、

他人のことを気にする余裕もないので、自分の体調に集中していた。

つまり体調不良の時は、いわば自分に軸でいられたのだ。

 

今回の私もひさしぶりの体調悪化で、本当にしんど過ぎて、御仁やら家族やら誰のことも傍に置いて、

自分の体に集中をする必要に迫られていた。

御仁のSNSも生存確認出来ればよしでいいねせずスルー

ああ、これが自分軸でいるって状態なのかなと理解した。

幼少期も普段は両親に素直になれないものの、

どこがご機嫌ポイントかのアンテナを張って生きてた。

体調不良の時だけ、ケアしてもらえるので、機嫌を取る必要がない。

 

御仁には散々、俺の機嫌なんて取らなくていいといわれたが、

機嫌を取らない状態がよくわからなかった。

しかし今回、機嫌取るエネルギーすらない体調不良によって、

自分のことで精一杯なのだから他人のことなんか気にする余裕ないという気分。

何だかんだで、人の機嫌を気にしまくっていた他人軸の私に、

他人のことはもう手放して、自分のとこに帰りなさいというギフトだったと思う。

お腹痛くて御仁どころじゃなかったし。

いま逢おう言われてもお腹痛くて嫌だと、自分の声がはっきり聴こえた。

 

自分軸への究極の戻り方

体調不良が教えてくれた感謝のギフト

 

この感覚を刷り込んで、体調いい時にも出来るようにしよう。

ありがとう。

 

 

 

 

 

父のようにはならない

父は理詰めで冷静に対処することもあれば

自分の意見が通らないとブチ切れる性分だった

 

幼稚園児だった頃

夕食後、父は娘たちに歌を歌うように言った

固まって歌えない私に

父は何度も何度も催促したが

それでも歌えない私にブチ切れて

床に叩きつけられ私は大泣きした

 

翌朝、幼稚園の制服を着た自分が

父に抱っこされ、昨夜歌わなかった理由を恥ずかしかったの?等と優しい雰囲気で尋ねられてる場面は、今でもカメラ越しに見る映像のように思い出す

昔は単に父に怒られたとしか思っていなかったが、生きづらさを自覚して勉強するうちに、あれはまさにDVというものだったのだと理解した

そんな父も90近くなり、少しは丸くなった所もあれば、高齢者ならではの短気さや自己中な部分もある

普段、認知症の母を抱えながら、家の切り盛りをしてくれている次女に対して、気に入らないことがあり怒鳴りつけるということがあった

昔は大人しかった次女も、流石に最近では理不尽さに対峙する力もついて、怒鳴り返したのだという

かつて家の中で、父と1番ぶつかったのは私だったが、怒鳴り返した記憶はない

父とは真正面から論理のぶつけ合いをして、最後に父が切れて怒鳴って終わる

怒鳴られたら心臓がドキドキ苦しくなるし、泣きたくなるが、そういう動揺した自分は負けだという気持ちになるから、動揺しないよう自分の感情に蓋をした。

けれど、最近怒鳴り返す次女の話しを聞くと、それはとてもいいことであり、必要なのではないかと思った。

 

自分のことに置き換えると、今日の私は疲れていたのもあるが、息子にイライラした。

怒鳴りたい程の気持ちがあったが、それではまるで父のようだと思い踏み止まる。

一方で親としては怒るというより、叱ることが必要な場面はあると思うが、本気で叱ろうとすると言い方や論点など考えることが多々あり、一苦労なので黙っていることにした。

 

親しい仲では怒りも含む感情の率直なやり取りが必要かと思うのだが、怒りに対してはDVのトラウマが重なり、どう扱うのがいいかとまどう。

 

その時々、悩むしかないのが宿命なのかもしれない。

私は父のようにはならない。

自分に夢中

他人軸から自分軸に戻すには

自分に夢中になることが大切


他人軸の強い自分は

どんなに多忙で疲れていても

他人のことになるとエネルギーが湧いたし

振り絞って這ってでもやる的な自己犠牲タイプでもあった

 


そんな自分が歳を重ねたこともあり

自己犠牲に必要な体力と気力が足りなくてなってきた

加齢は自然の摂理ではあるが

残された時間を自分のために生きなさいと

神様がセットしてくれたのかなと思う


いま超絶忙しくて体力も気力もギリギリで

いつも御仁のことを考えてる自分が

自分のことで精一杯


そか、これが憧れの自分軸ってやつか

自分に夢中

 

 

 

 

 

 

感情とは異なる次元で

喜怒哀楽は感情であり

感情は流れる雲のようにコロコロと変化する

変化する感情とは異なる次元が自分という存在

 

これまでの白黒思考であった自分は

白の時は黒を否定し、黒の時は白を否定し

相手の存在や愛情そのものを全てなかったことに否定してきた

 

しかし・・・

白になっても、黒になっても、常に自分はそこに在る

同じようにして白になっても、黒になっても、常に相手はそこに在る

過去もそうで、現在もそうで、未来もきっとそうだろう

 

その時々に相手が白に見えるか、黒に見えるかは

その時々の自分自身の心の状態であることがようやくわかってきた

 

相手の存在は、白でも黒でもない

それは自分が白でも黒でもないことと同じであり

喜怒哀楽という感情が自分の本質ではないことと同じ

 

あの時はこうしてくれたのに

この時はこうしてくれたのに

あの時は、この時は、あの時は・・・

 

こうした、ああしたは本質ではなく

どんな時も、あの人はあの人であり、私は私であり

それ以上でも、それ以下でもない

 

自分の心が自分の外に向いていて

他人の一挙手一投足に一喜一憂していただけ

他人の感情らしきものに執着していただけ

 

他人の感情も、自分の感情も

所詮は流れる雲のようなもので

私の本質には関係ない

ただそこに在るだけ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

許されなかった自分を自分は許す

昨日、一昨日からのことに続いて、さらにふっと気づいたので書き留めておきたい。

 

一昨日:

御仁にマイナスワードを発した後、見捨てられ不安に駆られた。

 

昨日:

恐怖心に突き動かされつつ、御仁に次回に会う予定を尋ねるメッセージをした。

しかし日付が変わっても既読にならないので、だんだん怒りに変わってきた。

ゼロ100の習性が疼いて、メッセージを取り消してしまいたい気持ちに駆られたが、「メッセージを取り消しました」という文面が残ってしまうので、御仁に気づかれるのが嫌だし、相手が思い通りに動かない時に癇癪を起す父の嫌いな側面を自分が持っていることを目の当りにするのも嫌だと思った。

これまでの人生では、癇癪を繰り返してきたのだから、今回の件はトライアルと考えて、取り消しを我慢したほうがいいだろうと思った。

幸い明日は朝から仕事だから、自分の気持ちが仕事に向かえば、この案件に対する執着も軽くなるはずだからこの一晩だけは頑張れ~と自分を励まし、就寝した。

今日:

昨晩悩み過ぎたせいか、起床時から眩暈がひどく、何とかして仕事に行かねばという気持ちで案件どころではなかった。

何とか職場に到着できて準備を進めていると、それこそ案件のことは脇に置けた。

そうやって案件に距離をとりながら、休憩の合間にふっと思いをはせてみると、「御仁はもともと自由を好むポジティブ人間なのに、私があれやこれやと要求したり、マイナスワードをぶつけたりしてしんどかったろうな~。きっと今は距離をとりたいと思っているのかもしれないな~」という思いが浮かんできた。

御仁の意に沿わない態度をとった私は、捨てられても仕方がないかなという気持ちも湧いてきた。なぜなら父親の習性では、意に沿わないと即絶縁を言い渡されることがたびたびあったからだ。それは私の心に深く沁みついている傷だ。

だからこそ一昨日は、捨てられそうで怖いよーと心が泣いていたが、時間がたつと、捨てられても仕方がないという思いに至ったのだ。

しかし一方で、怖いながらも私は自分の正直な気持ちを伝えたんだから、それで捨てられても仕方ないじゃないかという気持ちもある。

さらには正直な気持ちを伝えたのに、意に沿わないからといって私が捨てられるとしたら、そんな相手には怒りを感じる。

そんな風に怒りを感じると、私の方こそが御仁を切り捨ててやりたいという思いが出てきた。

 

こんな風にして自分の気持ちを客観視してみるとすべてが父との間の「意に沿わないものを切り捨てる」「切り捨てられ傷つけられる前に、相手を切り捨てる」というドラマ・ゲームの再現に過ぎないと気づいた。

 

私は父親に傷つけられつつも、父親とのゲームの中に片足を入れて人生が進んでいた。

今回の出来事は、もうそのゲーム降りてもいいんじゃないのか?と気づくために起こったのかなと思えた。

 

だから、

自分の意に沿わない行動をした私を、父は切り捨てたかもしれないが、私はそんな自分を許す。

自分の意に沿わない行動をした相手を、父は切り捨てたかもしれないが、私はそんな御仁を許す。

自分の意に沿わない行動をした私を御仁が切り捨てたとしても、そんな御仁を私は許す。

 

父に許されなかった私の言動、あるいはそのような言動をする他者を、私は許すと決意することは、私が父とのゲームを降りることを意味するし、私が私に許されることこそが、私にとって最も必要な癒しなのだと気づいた。

昨日書いたような、「父親の勝手は今に始まったことじゃないし・・・」「もう捨ててもいいんじゃないか」という自分の心のあり様は、今もこれからも父は相変わらず、自分のために人を傷つけていくかもしれないが、それは私の人生とは関係ないということに行き着くための布石だったのだと繋がった。

つまり、父親が周囲の人に対して、どんなにひどい仕打ちをしようとも、それは父親の生き様であり、私には関係なく、私は自分の人生を生きるために、父の横暴さから距離を取ったり、避けたりして、自分を守ればいいのだ。

父の言動を良し悪しでジャッジできなくもないが、そんなことすら私にはどうでもいいことだ。これまでは、同じゲームの中に居たので、いちいち傷ついてきたが、そもそも私はもう父の手の中にいる必要はないのだ。

同じようにして、御仁は自分の人生を守るために、意に沿わない私としばらく距離を取るかもしれない。

5年程前にも御仁に拒絶される経験があるのだが、それは父親のように相手を傷つけることを目的としたものではなく、お互いの関係を大切に思うからこその言動であった。

それまでの私の経験は、切るか切られるかという崖っぷちの人生であり、切られないための機嫌取りは無意識に染みついていたので、相手を大切に想うがゆえの毅然とした拒絶という体験は初めてだった。

そこには厳しい言動の中に、温かい慈愛のようなものが感じられた。

今回のことがそうであるかは不明であり、今回は御仁に捨てられるかもしれないし、距離を置きたい時間が1日必要なのかもしれないし、1年必要なのかもしれないし、そのうち命が果てるかもしれない。

しかし、私は私の生き方の上での言動だったのであり、御仁は御仁の生き方の上で別れを選択するのであれば、どちらが正しいということではないので、お互いが折り合わないならば、それで仕方ないのかなと思う。

あくまでも生き方、貴重な人生の時間の使い方の問題なのだ。

 

わたしは恐れというエゴを脇において、父親には出来なかった、意に沿わない人(自分)を許し、自分の人生に注力することにする。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の人生を他人に明け渡さない決意と自分の人生を生きる覚悟

ACに起こることのひとつに「親に人生を乗っ取られる」というのがある。

最近の出来事を振り返るのに、この言葉がふと降りてきた。

親の理不尽さに抗って、正面からぶつかって、傷ついて、家を出て、今でも距離を取っている。

親の言う通りにはならない、親に自分の人生を邪魔されたくない、親に振り回されたくない....etc

私は特に父親の言動にイライラすることが多かったが、最近は父のことも随分俯瞰できるようになったもんだと思える出来事があった。

父は娘たちの都合はお構いなしで、自分の都合のいい道具のように使う。

それでも年老いた父をサポートするために、娘たちで何とか調整して努力してきた。

いつもは自分はしんどいのだから電話もできないといい、様々な場所への電話を娘たちが対応しているのだが、先日は自分の勝手を通すために勝手に病院に電話をしていた。

姉たちは、この対応に悪戦苦闘し怒りをもっていた。

私はというと、もちろん腹立たしい気持ちはあるが、父の自分勝手は今に始まったことではないので、ああまたかという気持ちと、父親だからといって私は貴方に自分の人生を振り回されないという決意を新たにしたものだ。

 

精神科医斎藤学氏が「親を捨てたっていい」という趣旨のことを言っているが、自分ごととしてそこまで思うことはなかった。

しかしもうそろそろ、親だから、世話になったから、もう高齢なのだから、だから自分が我慢すればという毒親育ちが持ち続けた思考を手放してもいいのではないかと思う。

 

「捨てる」という強い言葉を使う必要はないのかもしれないが、親を優先して、自分の人生を犠牲にする必要はないと思う。

父は「皆に迷惑かけないように施設に入る」といいつつも、本気で入ろうとはしておらず、周囲に様々な要求を押し付けている。

迷惑かけたくない気持ちが本気なら、もっと配慮できるんじゃないのかな、それができないんだったらもう施設に入ればいいんじゃないかなと思う。

 

話は変わるが、今日ブログを書こうと思った理由は、父のことを踏まえた自分自身のことだ。

前述には、私から見た父の嫌な部分を書いたが、娘たちの中で最も父親に性格が似ているのは私だ。嫌悪する気持ちが一番強かったのが私であり、それに抗った結果が、嫌になるくらいそっくりなのだ。

自分の気が済むまで相手を遣り込めるところ、人をコントロールしようとするところ、自分が気に入るように人が動いてくれないと癇癪を起すところ、人の態度で自分が傷つけられたように感じてゼロ100で縁を切ろうとするところ…etc

父のことを反面教師にして、結局、人をコントロールしようとすることは、自分の人生が他人によって左右されることとイコールなのだと気づく。

人をコントロールしようとする背景には、人の機嫌が気になっているし、人の機嫌が悪いと自分の存在価値がないように感じられて不安になるという心理がある。

lineの返信が遅いのは、怒っているのかもしれないとか、●●してくれないのは私が何か悪いことをしたからかもしれない、●●してくれないのは云々。

昨日書いたような、人に対する「怖さ」「恐れ」というのは、過去の体験に基づく癖なので、一足飛びにはなくならない。

今日は、昨日からの自分の中にある「恐怖」と付き合うと腹をくくり、一日中ごろごろして自分をとにかく甘やかすように過ごした。

そして夕方になって少しずつエネルギーが復活して思い浮かんだことは、

「恐怖は一足飛びに消えないが、恐怖を持ちながらも自分の人生を生きるにはどうしたらよいか?」

という問いだった。

そうだ恐怖があることが悪いわけではない。

人に対する恐怖によって自分のしたいことができないことがだめなんだと気づいたのだ。

人に対する恐怖によって自分のしたいことができないというのは、「あの人は怒っているのかもしれない」「あの人は、〇〇」「あの人は●●」といって、自分の行動の可否を他人のせいにしているに過ぎないのであり、つまり自分の人生を他人に明け渡しているということなのだ。

だから、「あの人は」という他人を主語にして、自分の人生の言い訳をするのをやめて、「私はどうなったら嬉しい?」と自分を主語に自分の人生を問うことにする。

「あの人は怒っているかもしれない」というのは過去に基づく恐怖の妄想であるが、

「私はどうなったら嬉しい?」というのは、今に基づく未来の妄想なのである。

幼い頃の恐怖体験により危険回避のために相手の怒りを察知するスキルが高く、そのスキルは時に度を越えた妄想にまで及ぶことが多々ある。

しかし妄想力があるならば、それを別の方向で活用すればいいかなと思う。

恐怖心に消えろと言わずに、今から自分事があるから脇で待っててねと声をかけ、

「私はどうなったら嬉しい?」と自分に問うて、それに基づいて行動する。

「自分からLINEしちゃったほうが、待っててやきもきするよりよりいいわ。」と自分と相談して決めたらそうする。そうしたら、あとは相手の返信が3分後であろうが、3日後であろうが、それは相手の都合であり、私の人生とは関係ないので手放す。

まだまだぎこちないかもしれないが、いちいち自分と相談して、相手の人生と自分の人生をしっかり区別して、自分にできることはやり、自分にできないことは手放すということを地道にやろうと思う。

それが自分の人生を他人に明け渡さないという決意であり、自分の人生を生きるという覚悟なのだ。

 

 

 

 

 

 

怖いんだから仕方ない

また御仁の機嫌取りをしてしまった

年末年始の出来事から

自分は自分の機嫌を取ることに専心する決意だったのに

Lineに呟いたマイナスワードだが素直な自分の気持ちに

御仁の機嫌を損ねやしないかと急に怖くなったのだ

マイナスワードと言っても客観的にみるとマイナスとも言えない些細な会話だと思う

LINE送信前から不安はあったが素直をテーマに生きる決意なんだからと自分に言い聞かせた

けれど送信後、既読にならない状態から、

プレビューで読んで機嫌損ねたのかも、どうしよー怖いよー

やっぱり自分の素直な気持ちは自分の内に閉じ込めておけば良かったかも

にこにこして、相手が喜ぶような言葉を選んだらよかった

怖いから、結局リカバーのにこにこメッセージを送った

これまた送った直後に自己嫌悪に落ちた

また自分を誤魔化すの?って

伝えても怖くて辛い、隠しても苦しくて辛い

一体どうすればいいのか、、、。

この出来事から私は何に気づき、何を学べばいいか

 

○まだまだ幼い自分の傷が癒えていないことに気づけた

○怖くても素直な気持ちを伝えたいという前向きな気持ちに気づけた

○頑張って伝えたけど怖くて再び仮面を付けて自分を守ろうと頑張る自分に気づけた

○自分はもっともっと自分に優しくする必要があると気づいた

○自分はどんな気持ちもOKだよって自分に言ってあげる必要があると気づいた

○怖いんだから仕方ないって気持ちもOK

 

どんな自分も愛してるよ

なかったことにしようとしてごめんね

優しくできなかった私を許してね

いつも傍にいてくれてありがとう

今日は自分と仲直りするスペシャルなBD