吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

合わせてばかりで疲れた

今日は知人のイベント手伝いだった

 

不慣れな人々との関わりは、

自動的によそ行きの自分になってしまう

 

一方、いつも通りのらしさでいる人に対して、私はこんなにも無理して合わせているのにと

妬ましい気持ちにすらなってしまう

そしてそんな自分を批判的に見てしまう

 

ああ、疲れた…

お疲れさま自分

 

せめて帰宅後は、自分を労ってあげたい

 

 

クールに我慢しない

感情的になりたくない

動じない人になりたい

 

そんな自分の願望がいつしか

異なる思考に誤変換されてきた

 

怒ってはいけない

腹が立っても我慢しなければならない

腹が立つ自分は未熟者だ

 

そうじゃない

 

怒りという感情は自分自身ではなく

自然に湧いてくる雲のようなもの

良いも悪いもない

 

不快な出来事があったら、

不快を感じている自分に

そのまま感じていていいよと

言ってあげよう

 

愛想笑いはしない

オリンピック選手やプロスポーツ選手を見ていると、

愛想笑いする人はほぼいない

きっと自分の成すべきことに注力しているので、

他人の承認を得るような愛想笑い等まったく必要ないのだろうなと思う

 

そこで「愛想笑いはしない」と何度も自分に言い聞かせたのだが、

気づいたら愛想笑いしている

 

笑顔は人との関係の中で悪いものではないだろうが、

愛想笑いをするときは、たいてい自分の中の負の感情を隠そうとしているように感じて後味が悪い

 

負の感情を隠すことが悪いわけではないが、

取り繕っている自分が嫌なのだ

 

感情に良いも悪いもないのだから、取り繕う必要はない

愛想笑いをする自分は、自分の中のに起こる負の感情を悪だと思っているのかもしれない

 

そんな感情を持つ自分も否定し愛想笑いでもしないと、関係が悪くなりそうな不安を持っているのかもしれない

 

そんな自分の感情をああだこうだと分析したところで、正解がわかるわけでもない

 

ただ愛想笑いをやめてみようと思う

行動が変われば何かが見えてくるかもしれないし

 

今の自分のそんな気分を採用してあげようと思う

 

 

次のステージに

他者とのやり取りに生じたモヤモヤを

見つめてみた

 

原因はやはり私自身の承認欲求だった

 

承認欲求は捨てなければと知っていたのにと

自分を責めたくなる

 

いやまてよ

 

もう少し前は自分を責めてばかりいた

こんな私は、他者から批判されてるはずと

自己否定していた

 

それに比べたら、承認欲求は

私を認めてくれるはず

私を認めて欲しいと

自己肯定の上で他者に差出している

 

だとすれば、自己否定の段階を抜けだしたのではないか

 

次のステージに上がってるのではないか

案外ええじゃないか自分

 

亀の歩みで少しずつであっても

時に戻り道しても

次のステージに向かうのだ

 

自己否定を手放せた今

自分の承認を人に委ねるのをやめ

私が私を承認する

 

いいぞ自分!

正しさの鎧

自分を守る為に

正しさを追いかけてきた

 

普段は他人が恐いけれど

正しさがあれば強気になれた

 

けれど今は…

 

正しさが自分をイライラさせる

正しさが自分を責める

 

 

正しさの鎧はもう要らないかも

 

でも捨てなきゃと思うと、

捨てられない自分を責めてしまう

 

ではこうしよう

正しさの鎧が私を守る為に必要な時は使う

正しさの鎧が私を苦しめる時は放す

 

正しさの鎧は使っても、使わなくてもなくどちらもOK

 

その時々て自分で選びたい方を選べばよい

 

選びたいという私の望みこそ正しい

気の済むように生きよう

 

 

 

 

 

自分を労わる

人の役に立つことで自分の存在価値を見出してきた。

 

けれど自分を蔑ろにして人の世話をすることに疲れ果てた。

 

それで老婆心を手放そうと決めた。

 

しかし、人の世話をやめてみたら、

自分が、何もしないすごく悪い人間に見られてる気がしたり、冷たい人間ではないか自分が感じたりする。

 

罪悪感…。しんどい…。

 

まあ、まあ、そんな自分もよかろう。

何十年も染み付いた世話焼を、

瞬時に手放すなんて無理だよ貴方。

 

手放そうと努力しながら、

罪悪感を感じて、しんどいなって感じる貴方が愛おしいわ。

 

自分を労わるよ。

ゆっくり休め。

また明日…。

承認ではなく成果

AC的に、老婆心で人の世話を焼いてしまう癖がある

 

世話焼きの挙げ句の果てに、自分がぼろぼろになっていたり、自分のことが棚上げになっていることがある

 

最近は、老婆心を手放そうと意識している

 

しかし気づけば、またやってしまったという反省の繰り返しである

 

そこで改めて、一体、老婆心とはなんだろうかと考えてみる

 

老婆心で誰が幸せになれたのだろうか。

老婆心ってよくないことだろうか。

老婆心で、私が得たものはなんだろうか。

 

人の世話を焼いて、成果がもたらされたら私が嬉しい。

しかもその人に感謝されたら、さらに私が嬉しい。

 

どうやら老婆心から私が得るものには成果と承認の2つがありそうだ。

 

さらに成果を深掘りしてみる

どうやら2種類ありそうだ。

 

ひとつは、その人にとっての成果

もうひとつは、私自身が欲する成果

 

 

私が手放すべきは、他人の領域で自分を消耗するような老婆心

 

私は私自身が欲する成果に注力すればよいのだ

 

私自身が欲する成果は、達成すればその人も喜ぶかもしれないが、

もしその人からの感謝や承認がなくてもどうでもよくて、

何より私自身が嬉しくなるものだ

 

もはやそれは老婆心とも呼ばないのかもしれない

 

私が求めるのは、承認ではなく成果である