吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分を蔑ろにしない練習

私はACにありがちなように、自分を蔑ろにして人を優先するところがある。

人のことを心配し、身を粉にして世話を焼き、気が付いたら自分の為すべきことが置き去りになっていたり、心身がボロボロになっていたり、挙句の果てに感謝すらされず虚しさだけが残ったり・・・。

 

それでも人のために成したいことが、自分の人生で成したいことと合致した場合は、エネルギーを使ってもまあよいかと思うのだが、時として自分の本当に成したいことと、人のためにということとの区別がつきにくいというAC的性質もあいまって、その都度自分の声によく耳を傾けなければと自分に言い聞かせている。

 

ここ最近、御仁との間で起こる不快なことを俯瞰で眺め、これらのことから私は何を学ぶべきなんだろうか、このことを契機に私はどのような成長の課題が与えられているだろうかと改めて考えてみた。そして気づいた。

 

私は御仁を崇めて、自分を蔑ろにしている

 

AC的な私の課題は、まずは自分を愛することだと、頭ではわかっているつもりだったが、御仁との関係では、御仁は立派な人、私は御仁より劣っているという意識が根底にあった。

だから御仁から配慮がないことをされた時の辛さは、御仁に対しての怒りもないわけではないが、自分はそういうことをされる人間なのだと自分をラベリングする辛さであったり、堂々と御仁にそういうことはやめて欲しいと言えない自分を責める辛さであった。

 

つまり私に対して御仁がどうのこうのではなく本質的問題は、

 

私が私自身を愛せていたのだろうか

 

私が御仁を敬愛していることは確かだ。

しかし、どんなに御仁を敬愛したとしても、それ以上に私は私自身を愛すべきなのだ。

普段は「べき論」で自分をがんじがらめにする癖があるので、意識して「べき」とか「絶対」等という言葉を使わないようにしている。

しかし、この世に生まれてきたからには、「自分が誰よりも自分を愛するのは絶対!」なのではないか。

 

そこで、自分が誰よりも自分を愛する結果としての行動を選択する練習をしようと思った。ちょうど御仁と逢えるかもしれない日程がやってきたのだが、自分の仕事の佳境と重なっていたので、御仁に逢う時間をとるのが難しい状況であった。しかし、これまでの自分なら、仕事で寝れない日々が続くとしても御仁に逢えることを常に優先していた。

御仁が声をかけてくれていることに対して、私が自分のことを優先して断るなどということは考えられないことだったし、もし自分が人の好意を断るならば、相手が悲しむことを想像して自分が苦しくなるというAC的性質が大いにあったからだ。

改めて思うとAC的性質とは不思議なものだ。自分が相手に断られても、私の悲しみなんて取るに足らないと自分の悲しみは平気で蔑ろにする一方で、自分が断る時は相手の悲しみを自分の悲しみに重ねて、自分が無理してでも悲しませないようにしなければならないと義務感を思ったりする。

しかも御仁は強い人間であり、私と逢えないことぐらいで悲しむような人でもないとわかっているのに、私が無理してなんとかしなければと思うところが、やはりAC的病気だ。

 

そこで、私は自分のことを大切にするために、自分の成すべき仕事を優先して、今回御仁と逢わないことを決断した。そして、この決断によって自分がどのような感情になるかを、俯瞰的に観察してみることにした。

 

案の定、自分が断ることによって御仁に生じる悲しみという感情を想い、落ち着かない気持ちになった。けれど、これはどっからどうみても自分の妄想に過ぎないと自分に言い聞かせた。

 

しかもこの悲しみというのは、自分が子ども時代に親から拒絶されたり、見放されたりしたときの私自身の感情なのだと思った。だから、私が気にかける必要があるのは、御仁の悲しみではなくて、私自身の悲しみに焦点を当てて、「あの時は悲しかったよね。でも大丈夫だよ。」と自分が自分をケアしてあげる必要があることを、この出来事は教えてくれているのだと思う。

 

こんな風に、頭でわかったつもりでも、自分を大切にするために優先する等という、これまで不慣れなことを選択したわけなので、そわそわと落ち着かないことは事実だ。

 

何事も練習

 

相手を優先しないことが怖くて怖くてしょうがない自分もいるが、自分を大切にしようとして怖いながらも今回のチャレンジを選択した自分を褒めてあげたい自分もいる。

しかも私が私を大切にしようと選択した結果、御仁との関係が壊れるとすれば、悲しいのは事実だが、それはそれで仕方がないことだと思う。

自分を優先するのは、御仁を敬愛するがゆえであり、自分をさらに磨いていつも御仁と対等な関係をでいたいからだ。

 

今は当たり前に乗れる自転車も、初めてチャレンジしたときは、ふらふらして足をついたり、転んだりしながらも、練習を重ねることで乗れるようになった。

 

「自分を蔑ろにしない練習」はこれからも続く