吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

許されなかった自分を自分は許す

昨日、一昨日からのことに続いて、さらにふっと気づいたので書き留めておきたい。

 

一昨日:

御仁にマイナスワードを発した後、見捨てられ不安に駆られた。

 

昨日:

恐怖心に突き動かされつつ、御仁に次回に会う予定を尋ねるメッセージをした。

しかし日付が変わっても既読にならないので、だんだん怒りに変わってきた。

ゼロ100の習性が疼いて、メッセージを取り消してしまいたい気持ちに駆られたが、「メッセージを取り消しました」という文面が残ってしまうので、御仁に気づかれるのが嫌だし、相手が思い通りに動かない時に癇癪を起す父の嫌いな側面を自分が持っていることを目の当りにするのも嫌だと思った。

これまでの人生では、癇癪を繰り返してきたのだから、今回の件はトライアルと考えて、取り消しを我慢したほうがいいだろうと思った。

幸い明日は朝から仕事だから、自分の気持ちが仕事に向かえば、この案件に対する執着も軽くなるはずだからこの一晩だけは頑張れ~と自分を励まし、就寝した。

今日:

昨晩悩み過ぎたせいか、起床時から眩暈がひどく、何とかして仕事に行かねばという気持ちで案件どころではなかった。

何とか職場に到着できて準備を進めていると、それこそ案件のことは脇に置けた。

そうやって案件に距離をとりながら、休憩の合間にふっと思いをはせてみると、「御仁はもともと自由を好むポジティブ人間なのに、私があれやこれやと要求したり、マイナスワードをぶつけたりしてしんどかったろうな~。きっと今は距離をとりたいと思っているのかもしれないな~」という思いが浮かんできた。

御仁の意に沿わない態度をとった私は、捨てられても仕方がないかなという気持ちも湧いてきた。なぜなら父親の習性では、意に沿わないと即絶縁を言い渡されることがたびたびあったからだ。それは私の心に深く沁みついている傷だ。

だからこそ一昨日は、捨てられそうで怖いよーと心が泣いていたが、時間がたつと、捨てられても仕方がないという思いに至ったのだ。

しかし一方で、怖いながらも私は自分の正直な気持ちを伝えたんだから、それで捨てられても仕方ないじゃないかという気持ちもある。

さらには正直な気持ちを伝えたのに、意に沿わないからといって私が捨てられるとしたら、そんな相手には怒りを感じる。

そんな風に怒りを感じると、私の方こそが御仁を切り捨ててやりたいという思いが出てきた。

 

こんな風にして自分の気持ちを客観視してみるとすべてが父との間の「意に沿わないものを切り捨てる」「切り捨てられ傷つけられる前に、相手を切り捨てる」というドラマ・ゲームの再現に過ぎないと気づいた。

 

私は父親に傷つけられつつも、父親とのゲームの中に片足を入れて人生が進んでいた。

今回の出来事は、もうそのゲーム降りてもいいんじゃないのか?と気づくために起こったのかなと思えた。

 

だから、

自分の意に沿わない行動をした私を、父は切り捨てたかもしれないが、私はそんな自分を許す。

自分の意に沿わない行動をした相手を、父は切り捨てたかもしれないが、私はそんな御仁を許す。

自分の意に沿わない行動をした私を御仁が切り捨てたとしても、そんな御仁を私は許す。

 

父に許されなかった私の言動、あるいはそのような言動をする他者を、私は許すと決意することは、私が父とのゲームを降りることを意味するし、私が私に許されることこそが、私にとって最も必要な癒しなのだと気づいた。

昨日書いたような、「父親の勝手は今に始まったことじゃないし・・・」「もう捨ててもいいんじゃないか」という自分の心のあり様は、今もこれからも父は相変わらず、自分のために人を傷つけていくかもしれないが、それは私の人生とは関係ないということに行き着くための布石だったのだと繋がった。

つまり、父親が周囲の人に対して、どんなにひどい仕打ちをしようとも、それは父親の生き様であり、私には関係なく、私は自分の人生を生きるために、父の横暴さから距離を取ったり、避けたりして、自分を守ればいいのだ。

父の言動を良し悪しでジャッジできなくもないが、そんなことすら私にはどうでもいいことだ。これまでは、同じゲームの中に居たので、いちいち傷ついてきたが、そもそも私はもう父の手の中にいる必要はないのだ。

同じようにして、御仁は自分の人生を守るために、意に沿わない私としばらく距離を取るかもしれない。

5年程前にも御仁に拒絶される経験があるのだが、それは父親のように相手を傷つけることを目的としたものではなく、お互いの関係を大切に思うからこその言動であった。

それまでの私の経験は、切るか切られるかという崖っぷちの人生であり、切られないための機嫌取りは無意識に染みついていたので、相手を大切に想うがゆえの毅然とした拒絶という体験は初めてだった。

そこには厳しい言動の中に、温かい慈愛のようなものが感じられた。

今回のことがそうであるかは不明であり、今回は御仁に捨てられるかもしれないし、距離を置きたい時間が1日必要なのかもしれないし、1年必要なのかもしれないし、そのうち命が果てるかもしれない。

しかし、私は私の生き方の上での言動だったのであり、御仁は御仁の生き方の上で別れを選択するのであれば、どちらが正しいということではないので、お互いが折り合わないならば、それで仕方ないのかなと思う。

あくまでも生き方、貴重な人生の時間の使い方の問題なのだ。

 

わたしは恐れというエゴを脇において、父親には出来なかった、意に沿わない人(自分)を許し、自分の人生に注力することにする。

つづく