吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

ただ生きる

久しぶりに書きます。

 

これまで何度も書きたい気持ちになりつつも、書く行為までには至らず随分と月日が経っています。

 

これまで書きたい気持ちになった時というのは、AC的な自分がこれまで以上にずいぶん回復したと感じることについて、書きたいなと思っていました。

 

けれど今日、書きたいと思った理由は、とても些細なことから久しぶりに深く落ち込んでしまい、やっぱり自分はそんなに回復しているわけではないんだなと思ったためです。

自分でも何故にここまで落ち込むかなと、はてなが飛ぶくらいですが、なんだかひどく疲れているというか、エネルギーが不足しています。

 

今日は仕事が休みです。

私は仕事をかけ持っているので、仕事が休みの日でも、いろいろな残務を片付けるために喫茶店にこもったりします。自宅にこもってやるのはあまりやる気にならなくて、うるさくても他人がいる外の方がやる気になったりします。

今朝の時点では、今日も一気に残務を片付けようと思っていました。

けれど、今日は無理みたいです。

 

午前中に用事を済ませて、午後から喫茶店に行こうと思いつつ、動けない感じです。

あー弱っているなあと思い、何をしたら自分のエネルギーが回復するだろうと思いをめぐらせました。

 

映画はどうかな、エステかな・・・。

 

どれも心が動きません。

 

しかたがないので、amazonプライムで映画でもみて、だらだらしてやろうと思いました。普段なら恋愛ものを見ることも多いのですが、今日はそういう気分でもありませんでした。そして「生きてるだけで、愛」という菅田将暉出演の作品にあたりました。解説を見るとうつ病で過眠症の女性という、精神的に病んでいる人物が登場する話だったので、今日のように精神状態の悪い時にはあまりよくないかなあと思いつつ、これを観ました。

 

ひとことでいうと、登場人物のカップルは共依存そのものであり、ACや共依存で苦しむ私のような人間からすると、登場する女性の苦しさがとても伝わってきて、自分も苦しく感じるところもありました。けれども、登場人物を観客として、第三者として俯瞰して観ることで、逆に気持ちが落ち着く部分もありました。

 

というのは、登場人物に対する同情心のような、応援するような、慈しみのような気持ちになったことです。

 

「貴女はそのままでも、生きてていいんだよ。死なないでね。」

 

登場人物に対して、このような気持ちを抱きながら、このような言葉を自分が言って欲しいんだなと思いました。

しかも誰かにそれを言って欲しいのではなく、私が私に言って欲しいんだなと思いました。

 

他人軸でなく自分軸で、人のためでなく自分のために。ありのままで、自然体で。

ACの自分が無意識に他人の評価を恐れて生きていることを、やめたいとずっと思っていました。もう手放せたと思っていました。

 

でもひどく疲れた私は、「もう頑張らなくていいかな。」「もう何もしない自分でもいいかな。」と心の中で思わずつぶやいていました。

 

何故いつもいつも疲れ果てるまで仕事してんのかな。誰に強制されるわけでもないのに、休みの日も仕事して、いつも追われていて、いつも心身ともに疲れている。

 

何でかな。何でかな。何でかな。

自分に問いかけてみました。

 

やっぱり認めて欲しかったんだなと思いました。

他人に認めて欲しいというのも確かにあるけれども、自分自身に認めて欲しかったのだと思いました。

認めて欲しいというか、頑張らない自分は自分が認めてあげられないのだと思いました。

私は普段、頑張らない人に対して嫌悪感を抱きます。

それは頑張らない自分は赦せないのと同じだと思いました。

孤高の人である御仁を崇拝する一方で、頑張らない自分は御仁に認められないという恐れもあります。

 

けれど、最も私が恐れている人物、最も自分を責めている人物、いつも私を傷つけている人物は、私でした。

 

前からなんとなくわかってはいたのですが、たぶん目をそらしていたところがあります。

改めて、このことに向き合い、自分を赦すために、今日の落ち込みが必要だったのかなと思います。

 

今日観た作品の女性が相手の男性にこう言いました。

 

「いいなあ。あなたは私と別れることができていいなあ。私は私と別れることができない。」

 

頑張らない自分をたとえ他人や御仁が受け入れなくて別れることになっても、私は一生私と別れることはできなのだから、頑張れない自分も受け入れてあげようと思います。