父は理詰めで冷静に対処することもあれば
自分の意見が通らないとブチ切れる性分だった
幼稚園児だった頃
夕食後、父は娘たちに歌を歌うように言った
固まって歌えない私に
父は何度も何度も催促したが
それでも歌えない私にブチ切れて
床に叩きつけられ私は大泣きした
翌朝、幼稚園の制服を着た自分が
父に抱っこされ、昨夜歌わなかった理由を恥ずかしかったの?等と優しい雰囲気で尋ねられてる場面は、今でもカメラ越しに見る映像のように思い出す
昔は単に父に怒られたとしか思っていなかったが、生きづらさを自覚して勉強するうちに、あれはまさにDVというものだったのだと理解した
そんな父も90近くなり、少しは丸くなった所もあれば、高齢者ならではの短気さや自己中な部分もある
普段、認知症の母を抱えながら、家の切り盛りをしてくれている次女に対して、気に入らないことがあり怒鳴りつけるということがあった
昔は大人しかった次女も、流石に最近では理不尽さに対峙する力もついて、怒鳴り返したのだという
かつて家の中で、父と1番ぶつかったのは私だったが、怒鳴り返した記憶はない
父とは真正面から論理のぶつけ合いをして、最後に父が切れて怒鳴って終わる
怒鳴られたら心臓がドキドキ苦しくなるし、泣きたくなるが、そういう動揺した自分は負けだという気持ちになるから、動揺しないよう自分の感情に蓋をした。
けれど、最近怒鳴り返す次女の話しを聞くと、それはとてもいいことであり、必要なのではないかと思った。
自分のことに置き換えると、今日の私は疲れていたのもあるが、息子にイライラした。
怒鳴りたい程の気持ちがあったが、それではまるで父のようだと思い踏み止まる。
一方で親としては怒るというより、叱ることが必要な場面はあると思うが、本気で叱ろうとすると言い方や論点など考えることが多々あり、一苦労なので黙っていることにした。
親しい仲では怒りも含む感情の率直なやり取りが必要かと思うのだが、怒りに対してはDVのトラウマが重なり、どう扱うのがいいかとまどう。
その時々、悩むしかないのが宿命なのかもしれない。
私は父のようにはならない。