吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

意を決して不満を伝えてみた

御仁の前で抑えていることが沢山ある

 

●不満を言わないのが美徳

●些細な拘りを手放せるのが大人

 

私は自分の誕生日の扱いがとても気になる。

女子は大概、誕生日や記念日に拘るものと思いきや、姉などは全く気にしない女子だ。

だから誕生日に拘るのは、私特有なのかもしれない。

恐らく、誕生日をスルーされると、自分の無価値観を感じるし、見捨てられの傷が疼くのだろう。

 

御仁は誕生日気にしないタイプだから、LINEで今度お祝いしようとメッセージくれても、結局何もしてくれないこともあったし、メッセージすらない完全スルーの年もあった。

私はその都度、かなり凹んでいたが、そんな自分を隠してきた。

誕生日のような些細なことで凹む自分は子どもじみていると一笑されるのが怖かったし、嫌だったし、面倒な奴だと思われたくなかった。

誕生日を気にしない御仁に、お祝いして欲しいと伝えることは、相手に変わることを要求するようで、やってはいけないと自分に言い利かせてきた。

毎年、仕事のパートナー女史の誕生日に、ろうそくを立て、メッセージチョコを乗せたケーキでお祝いするFB投稿を見るたびに、胸が苦しくなった。

御仁に逢う頃には胸の痛みも忘れて何事もなかったように振舞えた。しかし、自分の誕生月と女史の誕生月が来るたびに、毎年苦しんだ。

 

数年前、1回だけお祝いしてもらった年がある。その時は手書きのメッセージをもらい、ぴょんぴょん跳ねて喜んだ。ただ、その日が誕生日前だったので、調子にのった私が誕生日には電話くださいねと言ったら、「そんな重たい。。。」と御仁が呟いたので、誕生日のことを自分の素直な気持ちで言うのはよくないのかもと自分にINPUTした。

 

今年の誕生日は、Lineメッセージすらこなかった。御仁の体調が思わしくなことや、多忙を極めていることは知っていたので、自分の不満を飲み込んだ。誕生日メッセージがないことイコール、御仁が私を蔑ろにしているわけではないことは、そのほかの行動で理解できたので、誕生日に御仁が無頓着で、私が執着してるという違いだから、我慢すればよいと自分に言いきかせた。でも、他人軸が過ぎる自分に嫌気がさし、その月の御仁のSNSへのいいねをすべて消去し、それ以後いいねをやめた。そんなことで御仁へ自分の気持ちが伝わるわけもないが、ささやかな抵抗であり、自分自身への慰めだった。

 

御仁に逢えたのは、誕生日の翌月だった。誕生日のことは自分の心に蓋をしたつもりだったが、ついつい「もう誕生日終わっちゃったよー」と思わず声に出た。しかし、その時はタイミング悪く御仁がスマホで用事をしている時であり、完全にスルーされ、それ以上の言葉は飲み込んで、再び蓋を閉めることにした。

 

誕生日にまつわる不満は、蓋をしたたけで手放せていたわけではなかったので、私の心の中でどろどろしていたのだと思う。

「誕生日のお祝いしてもらいました〜」というメッセージ付きケーキの写真を載せた女史のFB投稿を見て、もやもやが爆発した。これまで何年も自分の気持ちを押し込めてこれたのに、もうそれは出来ないと感じたし、もうそれはしたくないと思ったし、しないと決意した。では、何という言葉でどんな風に伝えたらよいだろうかと、これまたもやもやが膨らんできた。ちょうど翌日御仁から様子伺いのlineが来たが、私の考えはまとまらないし、何よりその時の気持ちでは、御仁とまだ対峙したくないと感じたので、夜までずっと未読にした。私にしては珍しいことなので、御仁が違和感を感じただろうか、感じて欲しい、いやそんな些細なことに拘る人じゃないから、何も感じてないだろうな・・・と、相変わらず細部に拘る自分がいた。

最近は特に自分軸を意識するようにしているので、何をどう伝えるかは頭で考えるのではなく、心に浮かぶことで決めようと思った。ちょうどその夕方は、ヨガ教室があったので、ヨガの間中とにかく今の自分に集中しようと自分を励ました。しかし、気が付いたらヨガの90分間このことで頭がいっぱいになる自分に苦笑した。

ヨガを終えた帰り道、いよいよ御仁に返信しようと思い、心を整えていた。御仁への応答メッセージに続けて、「私の誕生日もスルーしないで欲しい。」と伝えた。この私のメッセージと「明日は忙しい?」という御仁のメッセージが被った。私の誕生日メッセージは、これまで怖くて不満を伝えられなかった私の渾身のメッセージなのだが、その件について御仁が触れてくることはなかった。やはり御仁にとっては些細なメッセージに見えたかもしれないなと思い、この渾身のメッセージをスルーされる自分を慰めつつ、また我慢しようかという気持ちも沸きつつも、おさまらない怒りも自覚した。もともと今週は都合が悪かったのだが、自分の気持ちを鑑みるとこのままでは逢う気持ちになれないなとも思った。「今週は忙しい」と一言返信した。このメッセージには絵文字も入れず、クッション言葉も入れないことが、私にとって自分の怒りや不満を胡麻化さない精一杯の自分軸の表現でありつつ、いつも自分の気持ちを隠してきた自分としては不満を表現したことがとても怖かった。そんな大げさな恐怖心も御仁には伝わりようもなかったかもしれず、のんきに私の誕生日の日付けを送ってきたので、迷った挙句に不満顔のスタンプを送ったら、「あれ?違った?」というさらにのんきなコメント。。。これはもう次元が違いすぎると思い、これまでの自分抑圧人生を払拭するのは今しかないという気持ちで「スルーされるのが、悲しいの。」と送った。「次回はお祝いしよう」というメッセージがあり、ポジ男の御仁には、私の深刻さなど1ミリも伝わらないんだろうなと思いつつ、今更誕生日のスルーを詫びたり、祝ったりするのも違うし、深刻さが伝わらなくても今後の事態が変わればそれでいいかなと自分を慰めた。そこに追い打ちをかけるように「昨日は〇〇さんが来てたんだ。」というメッセージがある。「ん?」これは女史の誕生日祝いが〇〇さん来訪のついでだったとでも言いたいのかなと疑念がわいたし、毎年お祝いしているのも知っているしとまた怒りが再燃しそうになった。しかし次回お祝いの約束を取り付けたのだから、これ以上言うのはやめたほうがいいかなと思いつつ、やめたほうがいいというのはエゴの声であり、ここまで来たのだからとことん自分軸でいけばいいんじゃないかと思い「毎年お祝いするでしょ。女子にとっては大切。」と送った。ここまで書いたらようやく「わかった。」という御仁の言葉がありつつ、おまけに「女子ではない」というユーモア指摘が入るなど、御仁らしさに苦笑し、どこまでいっても自分の不満の大きさとはかけ離れることが仕方ないかもと思い、えいやと不満スタンプを送って終わりにした。

 

これまで何年も自分の辛い気持ちに蓋をしてきた分、この蓋を開けて素直に御仁に見せる決断をしたこの一日のエネルギー消耗は相当だった。すっきりした一方で、不慣れなことをした心地悪さもあった。これまで経験のないあからさまな感情表現が、相手を傷つけなかっただろうかと気が気でなかった。しかし、あとからlineを見返すと、なんてことはない会話だった。裏腹な気持ちとして、あわよくば、私の怒りや辛さを御仁にわかって欲しい、知って欲しいという思いもあったが、普通の人でも超ポジ男の御仁ならなおさら、このやり取りの下にそんな大きなマグマがあったことなど知る由もないだろうなと思った。あんなに一日中考え込んでいた自分がばかばかしく思ったり、しょうがいないやつだと愛おしい気持ちすら湧いた。

ただ他人にとってどんなに些細なことであっても、私にとって重大なことであったことは確かだ。自分の気持ちをディスカウントしないでおきたい。そんな思いもあり、とにかくこのブログで自分の大切な一日を振り返っておきたいと書き綴った。御仁に対して意を決して不満を伝えるのは、おそらく4度目。1度目は御仁もしっかり受け止めてくれた。それでも表面的には何事もない表情でいるのが御仁風で、当初もこの人には私の一大事がまったく響いていないのかと一瞬凹んだことも覚えている。実際には数年後も謝ったり気にかけた言動があり、表面ではなくそのような行動こそが御仁の本心なのだと理解した。2度目も御仁のある言葉に対し嫌だと伝えたら、「そんなこと・・・」と一蹴されそうになったが、おそらく私の表情が尋常でないのを察知して、その後電話をかけて訂正と、とにかく行動をみてくれと自分の思いを話してくれた。3度目は2人でいるときのスマホ事件だが、俺は独り占めできない人間、一緒にいても急に自分事をするような人間であり、だからといって大切にしていないといこととは違うんだと言葉を尽くしてくれたので、相変わらずスマホをいじるがそういうものだと思うことにしている。

こう振り返ると、他人が怖くて、自分の思いどおりいかないとすぐにシャッターを下ろす白黒思考が強い自分が、御仁と過ごすことを大切にしながら、要所要所で自分の気持ちを伝えるよう頑張ってきたのだなと自分を褒めたいと思う。御仁と出逢って最も教えられたのは両忘ということである。物事は常にグレーで曖昧であることこそが大切だということを改めて心に留めたいと思う。今日は怒っていても、明日は笑っている、明後日はまたご不満で等々、いろいろな自分もいろいろな他人も受け止められるような器でいたい。

 

歩歩是道場