吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

行為と愛情

父は本音と建前のギャップが大きく、DV気質で自分の思い通りにならないと、怒鳴り散らしたり物を投げたり暴力をを振るった。

母はそんな父の機嫌を損ねないよう振る舞うことを、私たち子どもに躾けた。

私は父の横暴さも嫌だったし、文句を言わずに従う母の態度も嫌だった。

自分は横暴な人間に負けない立派で強い人間になろうと思い、世間に評価されるよう頑張ってきた。

 

その結果、世間が怖くて対人恐怖に陥りながら仕事中毒になり、メンタルに限界が来た。

そしてようやく自分以外に向けていた意識を自分の内側に向け、自分自身に向き合うことになった。

最初に専門家のカウンセリングを受けてもう20年以上経つ。

機能不全家族の本も山ほど読んだ。

頭でわかっても恐怖という感覚は染みついてなかなか取れなかった。

変化は少しずつだったが20年を振り返ると、随分と違う景色が見えていると感じる。

 

私は父の機嫌に右往左往するのが嫌で大学以降、実家を出て、早々に結婚して距離を置いた。

父は90歳に近いが相変わらず建前で立派そうなことを言いながら、自分の思い通りにならないと怒鳴り散らしている。

今は、そんな父を見ていると可哀想な人だなと感じる。

私は一時期自分をACだと理解した時、父もやはりACなのだと理解した。

私が子どもの時は父の怒鳴り声も、物を投げられることも恐怖でしかなかったし、自分に罪悪感を持った。

今の私は、このような父の振る舞いは、駄々っ子が地団駄を踏み、僕をわかって、僕を愛してと叫んでいるのだと理解出来る。

父は自分の思い通りに人がしてくれる行為にしか愛情を見出せず、それが得られないと愛情が感じられず寂しくてしょうがないんだと思う。

 

私は20年の苦悩を経て自分の外側への意識を内側に向け、知識も増やし自分に向き合って努力してきた。

私もACだったかもしれないが、今は自分以外で自分を満たそうとせず私は私が私を愛そうと決意している。

もちろんいつも上手くやれるわけじゃない。

人が私の思い通りに行為してくれないと怒りがでたり、愛されてないんだと悲しくなったりすることがある。

しかし真実は、人の行為と愛情に直接関係がある訳じゃなく、自分の解釈や感じ方に過ぎないことを私は知っている。

しかも私は自分の内側を見ているので、そんな自分のお門違いの怒りに気づき、相手にぶつける前に自分で浄化させることが出来る。

逆に父のような人からお門違いの怒りをぶつけられても、罪悪感を感じずに自分の内側に入ってくることを阻止できるし、罪悪感を感じたとしても瞬時に浄化するよう努力できる。

 

例え父親であっても、私の人生に侵入したり傷つけたりすることは出来ないし、私はそれを決して許さない。

それは父が父自身の人生を破壊するのを私が止められないのと同じだ。

それは彼のものであって、私のものではないから。

さようなら。