吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

他人は私を守らない

自分を守るのは自分であって、他人は私を守らない。

 

とても当たり前のことだ。

 

なのに何故、ずっとずっと他人の顔色を伺い、機嫌を取り、自分を良く見せよう等としてきたのか。

 

頭では何度も何度も、自分を自分で守ろうと決心しつつ、できないでいたのか。

 

きっと、自分で自分を受け止めるには、自分のことが心許なく、他人にOKもらわないと安心出来なかったのだろうと思う。

 

最近、職場の同僚に揚げ足を取られような出来事があった。私に非はあるが、同僚に対して、真っ向から私を非難しないでいて欲しい、どんな私も受け止めて欲しいという、甘えたい気持ちがあったと思う。

 

しかし実際には、冒頭のようなことが現実である。このような現実に私が気づくための出来事だった。

 

最初に非難された時、私は心身が硬直するのを感じた。さらに、この凍りつく感じに、身に覚えがあった。

 

何だろうと深掘りすると、父に怒られる時の感覚が蘇った。

 

その都度、見捨てられる恐怖を感じる一方で、怒りが入り混じる気持ちだった。また、根底には、どんな私であっても、見捨てないで欲しいという嘆きがあった気がする。

 

そんな悲しみを抱えつつ、私は父の時に理不尽な批判に、真っ向から立ち向かっていた。これで死んでも自分を曲げないぞという気持ちだった。

 

今回の件でそんな過去を思い起こしながら、命懸ける程、父に受け入れて欲しかった、結局は甘えたかったのだと改めて理解した。

 

私は若干アウトローな性質を自覚しているが、これも結局、悪い自分も含めてどんな私でも、その存在を受け入れて欲しいという世間を試すような甘えい欲求があったのではないかと思う。

 

あるいは、他人に受け入れて欲しくて、自分を抑えている反動のようにして、自分のアウトローな部分は、私が私の欲求に正直で、自分にOKを出せているのではないか。つまり、仮面をつけた自分はいつも他人の評価に過敏であるが、アウトローな自分については、他人に非難されるのが自明であり、自分の内側、自分の殻の中で、自分だけが認めてあげられる部分なのだ。

 

他人の評価を気にする自分をいつも責めてばかりいたが、アウトローではあってもちゃんと自分を認めてあげていたではないか。

アウトローな私を他人は非難し、受け止めるなんてしない。それは私のトラウマ的幻想であり、当たり前に他人は私を守らない。

 

今回の出来事では、私が幻想を捨て、そんな他人をありのままに受け止められる時が来た知らせだった。

 

他人は私を守らない。

私は私を守る。

絶対に。