『自分にとって嫌な出来事は、自分の中にある負の感情を吐き出すためにその出来事が起こったのだ』
このような記事を読んだ時、その視点が新鮮かつなるほどそうなのか~と思った。
AC的なわたしにとっては、不快な出来事とは、ひたすら自分を責める材料にしかならなかったからだ。
*私の何がいけなかったのだろう
*私がどう改善・努力すれば今後このようなことが起きないだろう
*今の自分じゃだめだ・・・etc
「不快な出来事が起こるのは、自分の感情を吐き出すため」と頭にインプットしたものの、意識しなければ自分攻撃のつぼにぐいっとハマってしまう。
これまでやったことがないことを習得するのは、やっぱり練習あるのみなのだ。
『大人になれよ』
先日、御仁にこう言われた瞬間に、私の心はぐさっーと反応した。
瞬間的にはいつものように反応していた
*今の自分じゃだめだ
*大人にならなきゃ
*ちゃんとしなきゃ
*そんな風に言うなんてむかつく
*御仁に見捨てられる・・・etc
我ながら、こんな些細な一言なのに、なんでそこまで???ってびっくりするほど、
心が痛くて苦しくて、血の気が引く感覚があった。
数日後にふと、不快な出来ごとの意味に関する記事に再び目に留まった。
そこに書いてあることによると、
占い師でも誰かにでも、「こうしなさい」と言われたからこうするのではなく、その言葉に対して、「自分がどう感じたか」に基づいて決めることが大切。
「こうしなさい」と言われて不快を感じたとしたら、自分にとってそれは違うよってことを知るために「こうしなさい」と言われる出来事が起きたのだというのだ。
そこで「大人になれよ」と言われたこと対し「大人にならなきゃ」という自分の考え(これは気持ちというよりは思考なのだ)を一旦脇に置いて、
この「大人になれよ」と言われたことに対し、「私の心がどのように感じたか」を観察してみることにした。そして、以下のような気持ちが感じられた。
*子どもである私を受け止めてほしい
さらに、「受け止めて欲しい」というのは誰にそうして欲しいの?と深堀してみる。
ここもまだまだ思考レベルの練習中なのだが、知識としては他人=自分であり、他人にして欲しいことは、実は自分がしてあげていないというようなことを読んだことがある。
御仁に言われた瞬間、御仁に対する怒りもなくはなかったので、もしかして?これは御仁に受け止めて欲しいということかなと思いそうになった。
しかしここでは頭でっかちな知識を参考に無理やりにでも考えてみると、
いやいやこれは私自身にそうして欲しいということじゃなかろうか
なるほど、なるほど。
「大人にならなきゃだめだよ」「子どものわたしじゃだめ」「ちゃんとしなきゃだめ」「子どものままの私、ありのままの私じゃ、見捨てられるよ」・・・etc
これらの言葉は、私が私に言っていたのだ。
となるとだ。
*子どもっぽいあなたも大好きよ
*子どもらしさを楽しもう
*自分の中の子どもをうーんと癒してあげよう
*もっともっと子どもらしくいよう・・・etc
そんな風に自分が自分に言ってあげようと思えた。
AC的自分は、子どもらしくいることをいつも禁止されていて、あーしろ、こーしろ、これじゃだめだ、こうしないと縁を切るぞ、怒鳴る、殴る・・・etcという世界を生きてきた。
そこを生き延びるために、自分は子どもでいることを自分に禁じてきたのだ。
そして自分の中の子どもは、小さく小さくうずくまり、声をひそめて泣いていた。
インナーチャイルドを癒すことが、ACの回復への道とわかっているつもりなのだが、自分の中に沁みついている、「自分への禁止」「自分への批判」という癖は、一足飛びにはなくならない。
それが手放せていないよということを気づくために、「大人になれよ」と人からの言われ自分が不快に感じるという出来事が起こったのだろう。
そう気づいても、自分の中の見捨てられる不安がゼロにはならないが、エネルギーを使う方向がまったく変わる。
これまでなら自分の中の子どもを否定しいじめるような方向にエネルギーを注いだだろうが、今回は自分の中の子どもに「怖かったね。否定された気がして悲しかったね。でも大丈夫だよ。あなたはもっともっと子どもらしく楽しんでいいからね。また来てね。」と言ってあげられる。
大人になれよと言われて不快な気持ちになったことで、私は自分の中にある自分の傷に気づいてあげることができ、だからこそその傷を癒すことができる。
もっともっと子どもらしさを楽しみますっ!