吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

心のぽわん~を信じる

人の本質は発する言葉ではなく行動にある

 

わかっているけど、女子は言葉を欲しがる傾向にあり、私もそのひとりだった。

 

女子の怒りを収めたいがために、ごめんごめんを連発して、実は行動は改めないという男子もいれば、軽々しく謝ることはせず黙って行動を改めるという男子もいる。

冷静に見れば後者の方が誠実なのだが、女子的にはわかっていてもまずは言葉に着目してしまうというのがやっかいなところで、言葉に拘るからこそ言葉に苦しめられてきたともいえる。

 

そんな拗らせ女子の私もいよいよ言葉を手放そうと思えた出来事があった。

 

御仁は言葉ではなく行動を見て欲しいと主張する人間だが、私が崇拝しすぎるがゆえに、彼の行動だけではなく発する一言一句のすべてをダイレクトに受け止め、勝手に傷ついたり右往左往していた。

御仁は強くて優しい人間なのだが、彼自身が自分に厳しいところがあるので話す言葉が厳しくきつく感じられることが多々ある。そのような言葉を耳にするたびに、私自身が批難されたような傷ついた気持ちになった。最近では少々慣れたものの、出逢った頃は怯えすらあり、その瞬間もう逢わないでおこうと何度も思った。

 

しかししばらく離れて言葉に怯えたこと以外を思い起こすと、温かい気持ちがほっこりしていて、また逢いたいなと素直に思うし、逢う前になると楽しくて可笑しかった出来事だけが思いだされて一人で噴出してしまうことすらあった。その度に不思議だなあという感覚で終わっていた。

 

御仁といえども言葉は言葉に過ぎず本質ではない

 

ここ最近も御仁の毒舌に若干、心がざわざわしたところがあった。

 

一方で、御仁の何気ない行動や空気感から私自身の気持ちが喜んでいるのがひしひしと感じられた。

 

私は人の言動をあーでもないこーでもないと分析して勝手な解釈をする特徴があるのだが、それはAC的傷つきから心を守るために幼い頃に身に着けた方法だったのだと思う。しかしこういう方法は、自分の中の恐怖心から生み出されたものであり、妄想的な見方が多く、たいてい間違ったものの見方が大半のようであった。

 

そろそろこの間違った方法を手放してもいいかな・・・。

 

なぜなら御仁の毒舌から感じる私のざわざわには、私が言葉を妄想的に分析した結果が含まれているから。

 

しかし自分が感じたほっこり感は、心からダイレクトにぽわんと湧いたものであり、頭の思考を経由していない。

 

重要なのは頭を経由していないということ。

 

心にぽわん~

 

言葉、文字は、頭の回路を通らざるをえないので、どうしても自己解釈や妄想が入りがちだ。

しかし文字にしても、単なる活字ではなく、その人が実際に書いた文字を見ることの大切さを奇しくも御仁が話していたことを思いだした。

それはつまり、「見る」ことは思考を通らずにダイレクトに「感じる」ことが可能になるということではないだろうか。すると文字を見たときに、自分の心にぽわんと浮かんだ感じから、その文字を書いた人物像や気持ちなどを「感じる」ことができる。

 

思考ではなく自分の感覚でまとめてみると

 

御仁の毒舌の内容を分析することはせず、毒舌で語る彼を感じることに集中する。

一緒に過ごすときの行動や空気を感じることに集中する。

 

そこで自分の心にぽわん~と湧いたものをそのまま感じとる。

 

その自分の心のぽわん~を大切に受け止める。

 

そういう俯瞰で過ごした時間を眺めてみる。

 

彼が発した言葉や自分が分析したジャッジを手放してみる。

 

後に残ったのはほっこりした心