機能不全家族の中で傷ついてきた自分が、様々な人に出逢いながら、人に癒されていることを実感する。
これまでも毒親に関する本は読み漁ってきたが、9月に父親と対決した際に、改めて毒親蔵書としてAmazonの古本で以下を購入した。
ダン・ニューハース『不幸にする親 ~人生を奪われる子供~』
外側は非常にきれいな本であったが、その中には数か所にわたりラインが引かれ、ちょっとした呟きが書かれていた。
例えばその呟きの中には、毒親との関係改善に関する箇所では「無理そう」とか、
毒親との関係の中で生じたことを確認する箇所では、「当てはまることがたくさんで怖い。」とか、毒親に育てられたからこそ自分自身の中に育まれた強さを肯定される箇所では、「人生に無駄はないということかあ。」といったものである。
さらに、『あなたは苦しみから癒える権利があるのです。』という一文の横には、赤いラインが引かれ「涙」と記されていた。
この本の内容そのもの以上に、このように本の上に記されたものから、自分と同じ体験をして生き延びてきた人々の心の悲しみに触れる時、自分も共にその悲しみに涙し、自分自身の中にずっと抱えていた悲しみの存在を肯定し、心が軽くなる感覚を感じた。
このブログにおいても、アダルトチルドレンというグループに登録し、逢ったこともオンライン上でコメントを交わすわけでもない人々から、自分の記事にスタンプを頂いたり、人の記事を読むことで、その方の苦しみを感じ、自分と重ねながら想い理解することで、随分気持ちが癒されてきた。
『理解されること』
これによって自分の中に生来あった力が、自由になる感覚。
理解されるといっても、それは理解する他人の力に依存するのではなく、
『理解されたと自分が感じられる力』
つまり自分の力なのだ。
私の敬愛する御仁は、機能不全とは真逆の環境で、自分で考えながら物事にチャレンジできる健全な家庭ですくすくと育った。だから、いつも自分に自信があり、強さを感じる。
そのような御仁の強さには憧れるし惹かれるし、時に盲目の尊敬的に崇拝してしまうこともあるが、ある人に憧れるというのは少なからず自分の中にその要素があるから憧れるということなのだと言われたことがあった。御仁の強さの前では、自分の弱さに辟易してしまうことも多かったので、自分の中にも御仁と同じようなものがあるはずと言われた時には、へーそうなのだろうかと半信半疑に思った。
しかし最近の私は、AC的に抑圧されたり、不安があるから縮こまっている、怯えた子どもが自分の中に存在しているが、御仁にあるような強さが自分にないわけではないのだと理解できる。
冒頭の書籍の一文を参考に言うなら、毒親に育てられたからこその強さや優しさがあると言えるのではないかと自負する。
9月の父親DV事件の前から、父の横暴さを御仁に呟いたことはあるものの、あまり語ろうとは思っていなかった。御仁のように育った人には到底理解できない世界だと思うからだ。
とはいえ、御仁に父親のDV事件を話す流れとなり、わたしは言葉少なに語りつつ、内容にはあまり触れずに手紙を書いた旨を言ったところ「手紙なんてだめだ」と即座に言われた。だめな理由としては、後に残るし契約のようになってしまう、そんなことより「お詫びに今度みんなに焼肉おごってよ。」と明るく言うぐらいがいいよという発言・・・。
確かに、対決後の今の私なら、心理的回復が進んだので、そのくらいの器の対応ができるかもしれないが、当時の私はそうではなかった。なので、御仁の発言はさらりと受け流した。
このやり取りの後、しばらくして手紙を読んだ父と相対する場面となった。そこで父は9月のことだけではなく、幼少期にDVを受けたことで、私が苦しみと共にその後の何十年という人生を過ごしてきたかということを初めて知ったこと、そうした自分の過去の行為について詫びた。父はよくぞこの手紙を書いてくれた、このことを知らずにあの世には逝けなかったとと言い、私は人生で初めて嗚咽して父が泣くのを見た。
私は初めてのことに戸惑いながら「お父さんがこれまでしてくれたことには感謝しているよ。」と言い、さらに御仁が言ったように明るく焼肉の話をしなければと脳裏に浮かび、「みっ、みんなで、おいしいものでも食べに行こうね。」と突拍子もない発言を残して、その場を去った。
*手紙を書いた
*手紙を出した
この2つの行動ができただけでも、私にとっては大きなことであった。
もはや父が内容を理解してくれず横暴なままであったとしても、私は自分を守ることを初めて相手に伝えるという行動を起こせたことで自分を信じられると思っていた。
とはいえ、実際に父が理解を示さない言動をしたときに、自分にどんな心の反応が起きるか不安ではあったので、しばらく逃避のために実家へ近寄らなかった。というか近寄れなかったのだ。
しかし急遽、母の件でどうしても行かねばならなくなり上記の場面となった。
その後、御仁と話した際、手紙には何を書いたのかと聞かれ、あまり詳細を言うつもりはなかったが「父の暴力で家族がどれだけ傷ついたかということ」と呟いた。するとこれまた即座に「そんなねちっこいのはだめ」と返ってきた。
この一言を聞いた瞬間、やはりこの件を御仁に語る必要はないなと確信した。
*理解できない人がいる
*体験していなければ理解できないのは当然だ
*良い・悪いではない
以前の私なら、理解してくれない、理解できない相手に、怒りや悲しみを持っただろうが、今はそれはない。
究極的には、御仁は幸せな家庭で育ち、自信と強さを備えて充実した人生を送ってきてよかったねと、その幸せを祝福する。
一方、私は御仁には理解できない人々の苦しみを理解する能力を持つことができたことを誇りに思う。
それぞれが、それぞれの人生の主役として幸せであればよし