吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分のために生きるということ

ここ4-5日、御仁とのことでもやもやしており、少し気持ちを整理したく文字にしてみたい。

 

御仁と過ごすようになり1-2年程の頃、何かの折に「俺の機嫌なんか取る必要ない。」と数回言われたことがある。何を指して「私が御仁の機嫌をとった」ということなのかわからなかったが、尋ねるのも怖かったので、そのままスルーしてきた。しかし今思えば、鋭い御仁のこと、私のAC的な人の顔色を伺う振る舞いを端々に感じ取ったのではないだろうか。

 

AC的な自分の生きづらさ、特に人が自分に対して怒っているのではないかという恐怖から、顔色を伺うということが染み付いているのだと思う。それでも、人に支配されることから抜け出したくて、様々な努力を重ねていたはずだった。一方で、御仁のような敬愛する人に良く思われたい気持ちや、御仁が強い人だからこそ「怖い」という想いを持つ自分を自覚はしていた。けれど、それが「機嫌を取る」と相手に伝わる程の態度となって表れていたかもしれないということに、愕然とする。

 

普段、心理学に精通する友人に、お悩み相談をすると「あなたはどうしたい?」というキーワードをよく向けられる。これは私にとって難しい質問だ。何故なら、どうしても「~すべき。」という思考が強く、自分の欲求という感情が抑圧され「自分はどうしたいの?」と自問しても、わからないことが多々あるからだ。

 

「配慮する」ということと「機嫌をとる」の違いがよくわからず、ある時御仁に尋ねたことがある。すると「配慮は、相手が嫌がることをしないこと」とのこと。

うーむ。私としては、わかっているつもりで、よくわからない・・・。

というのは、私の思考では「相手が悲しむのではないか。つらく思いのではないか。」という基準が頭に浮かぶ。そして相手が悲しまないようにしなければならないという想いで、自分が奔走してしまう。そして疲弊する・・・。

大体の場合、私が思い浮かべる相手の悲しみというのは私の勝手な妄想であり、私自身の悲しみだったりする。

 

先日もFBでお節介をしたことがあった。具体的には、私が投稿したFBにコメントをくれた友人がいた。その友人に対して別の人がさらにコメントをくれたのに気付いておらず、リアクションがなかった。すると私は、気づいてもらえなかった人は、悲しい気持ちになると危惧して、別のSNSで友人にリアクションするよう促したのだ。その後に考えてみるとやらなくていいAC的病的お節介だったと反省した。

何が病的かというと、「気づいてもらえなかった人の悲しい気持ち」とは、実は「私自身の悲しみ」を投影している。また人の負の感情に対して、「何とかしなければ」と思うこと、それは父の怒り起こさないように、あるいはうまく沈めるように奔走しようとする病である。

 

話を御仁とのもやもやの件に戻す。

御仁は毎日FBを投稿している。私はそれを見て、ああ今日も無事なんだなと思いながら、いいねボタンを押している。余談だが、御仁と出会って初期の頃、御仁以外の人を含めてFBのいいねを押すのが、心理的にしんどくなったことがあり、ある時を境にいいねボタンを押すのを止めたことがあった。すると御仁から指摘されたので、「最近、押すのやめたのですよ・・・。」と言ったものの、御仁はご不満のようだったので、私はいいねボタンを押すことを再開した。

 

けれど時々、投稿内容にもやっとしたり、嫉妬のような感情が起こることがあると、いいねボタンを押したくない気持ちになることがある。そんな時に、自分の気持ちに従い1-2日いいねを押さないでみる。けれどそのうち「御仁が心配しているのではないか」という想いにかられ、自分の気持ちが収まってなくても、そろそろ押しておかなければと実行してしまう。

 

そして今回も本日でいいねスルーの4日目が経過した。案の定、「御仁が心配しているのではないか。」「また指摘されたり、責められたりするのではないか。」「そろそろ押しといたほうがいいかな。」という想いに駆られている。

けれど、ここは敢えて自分に対して「自分の今の気持ちはどんな感じ?」「私はどうしたいの?」「私は本当に押したいの?」と?問うてみる。

 

「御仁が心配しているかも。」なんて、なぜ自分の行動を他人を主語にして決めようとするのか、これは嫌がることをしない配慮というのとは違う種類であり、私の妄想に過ぎない、あくまで自分を主語にして、自分の感情に耳を傾けて、行動を決めればいい。

たとえそれが御仁の意に沿わないことであっても構わない。それでだめなら仕方ない。だって、私は御仁に従属しているわけではなく、自立した大人同士なのだから。

 

他人のものさしで良い悪いをジャッジして行動を決めようとする癖がついている。

まずそれを自覚して自分の感情を観察する。

今はまだ怒ってるな~私。

でも明日になれば、気持ちが変わっているかもしれないし、やっぱりまだ怒っているかもしれない、わからないけど・・・。

でもいつか怒りは収まるだろう。でも今は怒っているし、いいねボタンを押したくないんだね自分。

よしよしわかった。それじゃ、いいねは押さないという選択でいいんじゃないの。そのうち押したくなったら押したらいいよ。ずっと押したくなければそれでもいいんじゃないの。FBは、所詮他人の日常の出来事に過ぎない、それは敬愛する御仁であっても同じ。

私は私の日常の出来事の中に居るのだ。そんな自分の日常を、自分の目の前の暮らしを、そこにリアルにある自分の感情を大切にすればいい。

 

自分のために自分の人生を生きるということ。