自分の声を聴くときに、『頭の声』と『心の声』という2つの声があることが理解できるようになった。
様々な本の中でも、精神と感情として、あるいは心と魂として区別して表現されており、その時々ではわかった気になっていた。
けれど、改めて意識して自分を俯瞰的に観察してみると『頭の声』が中心となっていたことに気づく。その気づきのきっかけとなったのが、以下の本である。
〈からだ〉の声を聴きなさい:リズ・ブルボー著
この本はACという切り口ではないのだが、ACが陥りがちな辛さから解放されるための対処について、具体的に書いてあるのでお勧めである。
ここでは、頭で考えることを左脳的知性と表現しているのだが、大切なのはからだの声を感じ切ることであるとしている。読み進めていくうちに、私が自分の声としてとらえようとしていたのは、左脳的知性つまり頭で考える自分の意見のようなものに過ぎなかったのかもしれないと思った。
自分の本当の声とは、頭で考えるものではなく、自然に沸き起こる感覚として感じ取るものなのだ。だとすると、自分の声を聴くというのは、自分に問うことであり、問うた上で自分の内面からどんな声が湧いてくるのか静かに俯瞰で内面を眺め、感じる取るということなのだ。
そのため自分が自分に問うた後に、自然に湧いてくる声や、感じきれることを『待つ』ことになるのであり、少々時間を要することもあるだろう。
『ちょっと内側の自分に聴いてみるから待っててね』
まさに、内側にいるもう一人の自分、本当の自分に意図的に逢いに往く、その声を聴きに往くという感じだろう。
この感覚を得た時、もう一人の自分、本当の自分は、左脳的知性である普段の自分がコントロールできる存在ではなく、自分の中の別の人格としての友人の意見として聴き、そのまんま知るということなのだ。
自分の中にある本当の自分というものは、左脳的知性でコントロールできるものではないと理解する時、他人をコントロールしようと苦悩してきたAC的な行動が、もはや幻想にしか過ぎないことが腑に落ちてくる。
ふっと理解できたつもりでも、またいろいろな波風が立って自分も他人も何とかしなければといきり立つことがあったりと、行きつ戻りつするのだろう。
けれど、そんな自分に対しても、「あーまたやっちゃったのね。よしよし。」と、優しく抱きしめてあげることはできる気がする。
最も愛すべき存在は、他人ではなく自分の内側にある真の自分という友人