吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

ただ生きる

久しぶりに書きます。

 

これまで何度も書きたい気持ちになりつつも、書く行為までには至らず随分と月日が経っています。

 

これまで書きたい気持ちになった時というのは、AC的な自分がこれまで以上にずいぶん回復したと感じることについて、書きたいなと思っていました。

 

けれど今日、書きたいと思った理由は、とても些細なことから久しぶりに深く落ち込んでしまい、やっぱり自分はそんなに回復しているわけではないんだなと思ったためです。

自分でも何故にここまで落ち込むかなと、はてなが飛ぶくらいですが、なんだかひどく疲れているというか、エネルギーが不足しています。

 

今日は仕事が休みです。

私は仕事をかけ持っているので、仕事が休みの日でも、いろいろな残務を片付けるために喫茶店にこもったりします。自宅にこもってやるのはあまりやる気にならなくて、うるさくても他人がいる外の方がやる気になったりします。

今朝の時点では、今日も一気に残務を片付けようと思っていました。

けれど、今日は無理みたいです。

 

午前中に用事を済ませて、午後から喫茶店に行こうと思いつつ、動けない感じです。

あー弱っているなあと思い、何をしたら自分のエネルギーが回復するだろうと思いをめぐらせました。

 

映画はどうかな、エステかな・・・。

 

どれも心が動きません。

 

しかたがないので、amazonプライムで映画でもみて、だらだらしてやろうと思いました。普段なら恋愛ものを見ることも多いのですが、今日はそういう気分でもありませんでした。そして「生きてるだけで、愛」という菅田将暉出演の作品にあたりました。解説を見るとうつ病で過眠症の女性という、精神的に病んでいる人物が登場する話だったので、今日のように精神状態の悪い時にはあまりよくないかなあと思いつつ、これを観ました。

 

ひとことでいうと、登場人物のカップルは共依存そのものであり、ACや共依存で苦しむ私のような人間からすると、登場する女性の苦しさがとても伝わってきて、自分も苦しく感じるところもありました。けれども、登場人物を観客として、第三者として俯瞰して観ることで、逆に気持ちが落ち着く部分もありました。

 

というのは、登場人物に対する同情心のような、応援するような、慈しみのような気持ちになったことです。

 

「貴女はそのままでも、生きてていいんだよ。死なないでね。」

 

登場人物に対して、このような気持ちを抱きながら、このような言葉を自分が言って欲しいんだなと思いました。

しかも誰かにそれを言って欲しいのではなく、私が私に言って欲しいんだなと思いました。

 

他人軸でなく自分軸で、人のためでなく自分のために。ありのままで、自然体で。

ACの自分が無意識に他人の評価を恐れて生きていることを、やめたいとずっと思っていました。もう手放せたと思っていました。

 

でもひどく疲れた私は、「もう頑張らなくていいかな。」「もう何もしない自分でもいいかな。」と心の中で思わずつぶやいていました。

 

何故いつもいつも疲れ果てるまで仕事してんのかな。誰に強制されるわけでもないのに、休みの日も仕事して、いつも追われていて、いつも心身ともに疲れている。

 

何でかな。何でかな。何でかな。

自分に問いかけてみました。

 

やっぱり認めて欲しかったんだなと思いました。

他人に認めて欲しいというのも確かにあるけれども、自分自身に認めて欲しかったのだと思いました。

認めて欲しいというか、頑張らない自分は自分が認めてあげられないのだと思いました。

私は普段、頑張らない人に対して嫌悪感を抱きます。

それは頑張らない自分は赦せないのと同じだと思いました。

孤高の人である御仁を崇拝する一方で、頑張らない自分は御仁に認められないという恐れもあります。

 

けれど、最も私が恐れている人物、最も自分を責めている人物、いつも私を傷つけている人物は、私でした。

 

前からなんとなくわかってはいたのですが、たぶん目をそらしていたところがあります。

改めて、このことに向き合い、自分を赦すために、今日の落ち込みが必要だったのかなと思います。

 

今日観た作品の女性が相手の男性にこう言いました。

 

「いいなあ。あなたは私と別れることができていいなあ。私は私と別れることができない。」

 

頑張らない自分をたとえ他人や御仁が受け入れなくて別れることになっても、私は一生私と別れることはできなのだから、頑張れない自分も受け入れてあげようと思います。

 

 

 

 

 

他人の感情に影響される ーネガティブ編ー

新年早々ネガティブ編とは、これ如何にというところだが、自分の中のネガティブを否定しないでしっかり感じきってあげることで、自分を大切にする練習にしたいと思うわけです。

 

私には姉が2人いるのだが、昨年末、私の態度によって姉の機嫌を損ねる事件が起こった。具体的には、姉の仕事上の話を最初は熱心に聴いていたのだが、途中から愚痴が長くなり、私は体調の悪さも手伝って聴いているのが辛くなってきて、態度に出ていたようだ。それが姉の癇に障ったようで、「つまらない話でしたね。」と言ってぷんぷんし始めた。姉が憤慨した瞬間、私は「まずいっ」と思うと同時に、心臓がどきどきしたのだが、すぐに言い訳する言葉も気力もなく、私は無言でやり過ごすことにした。

 

一人になった時に、なぜそんなにどきどきしたのだろうと振り返った。このドキドキは昔、父を怒らせたかもしれない、父が不機嫌かもしれないと察した瞬間の体の反応と似ていた。頭でまずいと思うだけでなく、胸がどきどきして体が緊張する感じだ。自分の反応を俯瞰してみると同時に、家族全体の毒としてこの状況を見たときに、姉が父と同じだと思えてきた。そう理解した時、私は父の感情を損ねないように、父を怒らせたなら機嫌がなおるように言い訳をしたりした過去を思い起した。そのような過去を思う一方、「私は他人の機嫌を取ることをやめるのだ」と改めて自分に言い聞かせた。私には自分の体調や気分という私の事情があるのであり、一方的に不機嫌になったのは姉の領域の話である。姉の感情は姉のものであり、私が姉の機嫌を取る必要はない。そこにはしっかりと境界線を持っていいのだと自分を励ました。

 

しかしこのような理解は、ACの私が教科書的に学んだ知識による解説であるが、やはり染みついたトラウマはなかなか手ごわかった。その後もずっと自分がどきどきして、不機嫌になった姉のことを恐れていた。正月ともなると、実家に姉妹が寄ることになるので、この恐れを抱いたままでは耐えかねると思い、AC的な理解のある2番目の姉に打ち明けた。2番目の姉は、本当の他人だったらもう会わないかもしれないし線引きの話はわかるんだけど、身内だから関係をつづけなきゃらないので、「聴いてたけど体調悪くって、ごめんね~」くらいは言ったほうがよかったのかもという意見だった。私は2番目の姉に並々ならぬ信頼を置いていて、普段からよく意見を求めるし、姉の意見に妙に納得してしまうところがある。今回の意見にも、妙に納得してしまい、「今回はもう仕方ないけど、今度から気を付けるよ。」と言った。

 

そんな2番目の姉の意見にも影響されつつ、今日になって、やっぱり今回のことも謝って説明を追加した方がいいだろうかと急に思い立った。そして新年のあいさつがてら当該の姉に「気分を悪くさせてごめんね。実は●●。」と長々としたLINEを送ったのだ。送ってからもしばらく既読にならず、「機嫌が悪いから、わざとスルーしているのかな」と悶々とし、既読になっても返信メッセージが来ないので、「やっぱりかなり怒ってるのかな。」「こんな気分になるんだったら、やっぱり言い訳のLINEしなきゃよかったかな。」「でも自分の不機嫌をぶつけてくるなんて子どもじみててむかつく」とざわざわした元旦の一日を過ごした。

 

そんな一日を過ごして、心が疲れ果てたところで、今思うことは、今回のいろいろな感情をすべて私が感じること、再認識することこそが大切だったのかなと。

*当該の姉の不機嫌な態度にどきどきしたこと。

*不機嫌さをぶつけてくる姉に腹が立っていること。

*2番目の姉の意見で自分の行動を変えたこと。

*2番目の姉の意見で行動した結果、当該の姉の既読スルーにざわざわしたこと。

*やっぱり自分の意見で動いた方がよかったかなと感じたこと。

 

そう思うと、ACに私が書籍を読み漁り頭で理解したつもりでも本当にはわかっていなかったけど、やっぱりそうかと納得できるまで理解するに今回の感情体験は貴重だったと思える。特に俯瞰で気づいたことは、不機嫌な姉に恐怖を抱きつつも、怒りを覚えている点である。姉の子どもぽっさを否定する私自身、私の中の不機嫌な子どもぽっさを否定しているんだなと気づいた。

 

私の中にある恐れが、すっかり解消できたわけではないけれど、明日は笑顔で実家に寄ろうと思う。

御仁との体験で学んだポジティブ編のように、私が恐れをもって姉に対峙すれば姉の怒りを引き出すだろうが、恐れを手放し自分を否定することなく在ればいいのだと思う。

 

私は自分を守る強さと、相手の感情を受け止める強さを持ちたい。

壬寅の年を迎え、寅の如き強さとそこに秘めた優しさを忘れないように。

 

 

他人の感情に影響される ーポジティブ編ー

突然激高する父親の影響で、他人を怒らせていないかどうか無意識のうちに過敏になる。そんな必要はないと頭で理解しても、染みついたセンサーはそう簡単には消えないものだとつくづく思う。

 

しかし自分が影響を受ける他人の感情というのは、怒りや批判といった悪いものもあるが、楽観や笑い等という良いものもあり、改めて超ポジティブな御仁に影響される出来事があった。

 

約束をした時間に急な来客があり、15分程度時間を潰して欲しいと御仁から言われた。15分という喫茶店に入るのも中途半端なので、途中の駐車場に車を止めシートを倒して休むことにした。ふと目を開けると既に40分程経過している。メールもない。AC的な私は人に不満を漏らさずいい人を演じる癖があるし、待たされた自分の感情として怒っているのかさえわからない。自分の感情を感じることが苦手なのだ。

 

感じることが難しいのでやむなく、頭で考え始める。自分だったら5分でさえ人を待たせたら、びくびくする。40分も待たされるなんてひどい扱い、私を蔑ろにしているのではないか。いやいや、御仁は立派な人だし、大切な仕事の客人なのだから、御仁がその対応ができるように、私が平静でいられる人間になればいいのではないか。いやいや、私だって自分の時間は大切だ、それを怒らないのは私が自分を蔑ろにすることではないか。ここは「No」と言った方がいいのではないか・・・etc。

 

自分の気持ちがわからないだけに、いつも同じような悩みかただと、自分に半ば呆れつつ、私は御仁に「日を変えてもらっていいですか」とメールすることにした。何度も書き直しながら、45分が経過したら送信ボタンを押そうと意を決し、まさに送信ボタンを押しますよーというその瞬間に、御仁から電話がきた。

 

「終わりましたー。いいですよー。」

御仁の何とも屈託のない明るい声・・・。

 

 

「はーい」と、私は反射的に御仁と同じ調子で返答していた。

 

もし相手が、私のAC的習性のようにびくびくして、「ごめんねー。大丈夫?」等のように私の機嫌を伺うような対応であれば、待っている間の私のもやもやした気持ちはさらに増幅していただろう。

 

しかし御仁のような超ポジティブな人間の感情には、こんなにも恐れがないものかと感心してしまった。しかも、あんなにもやもやしていた自分のネガティブな感情が、他人のポジティブな感情に吹き飛ばされる不思議な体験であった。

 

御仁に逢った瞬間、私は素直に逢えた嬉しさを感じつつ、「日を変えますかってメールするところでしたよ」と素直に言えたことにも驚いた。

 

きっと明るく振舞うことを頭で考えて決めたわけではなく、御仁のポジティブな態度に私の心が素直に反応して行動した結果なので、頭で悩まず言葉が素直に口をついてでたのだと思う。

 

人のネガティブな感情に影響されて生きてきた自分が、ポジティブな感情の影響に感動するとともに、自分の中に沁みついた恐れを手放したいと思った出来事であった。

 

 

 

 

 

 

体が知らせてくれたこと

自分の世話をする

自分のケアをする

自分の声を聴く

自分の人生を往く

 

これらのことは、自分がACであることを自覚し、沢山の書籍を読み、意識しているつもりだったし、歳を重ねるごとに随分と実行できることも増えてきたと思っていた。

 

けれどこれまでの長い年月、自分のことを蔑ろにして、他人軸でがむしゃらに働いてきた体が悲鳴をあげ、先日私はとうとう眩暈で倒れてしまった。

 

吐き気に苦しみ一時は水分も受け付けず、4日間は仕事を休んでずっと臥床して過ごした。こんなにも長い間も何もしないで寝て過ごすのは、おそらく人生初めてではないだろうか。

 

アラフィフという年齢もあって、自分の人生はあとどのくらい残された時間があるのだろうかと、ふとんの中でぼんやり考えていた。

30代でも、40代でも、亡くなる人もいる。

自分だって、来年生きている確証はない。

体調不良は確実に自分に残された時間が多くないことを知らせている。

だとしたら、もっともっと自分のために生きることを真剣に考えなければと改めて思った。

 

仕事復帰してから、まるで演習問題のような出来事が起こった。

仕事のオファーが先方と折り合いがつかず、相手に寄るか、引くかという場面である。

 

まずはいつもの癖で、どのようにして相手に寄るかということを考えていた。

しかしすぐさま、これは病後の演習問題だと思い、次のように自分に問うた。

 

『この期に及んで、まだ私はこれまでのように、自分を犠牲にしてまで相手に寄るのか?』

 

その答えはNO!!

 

もう自己犠牲はやめます。

私がわたしらしく在ること、自分を大切にする仕事のスタンスが、相手と折り合わなくてもいい。

それは相手の自由。

けれど私は自分を犠牲にしてまで相手に合わせない。

お互い折り合わないのは仕方ない。

どちらも犠牲になる必要がない。

また折り合う相手をお互いに見つければいい。

お互いがそれぞれの望みをかなえればいい。

その望みをかなえるのが私でなくてもいい。

そこに罪悪感はいらない。

私らしくある私の仕事にオファーしてくれる相手に喜んで提供すればいい。

 

 

これまでは基本的にNOというのが苦手だったし、できなかった。

きっとNOと言ったら見捨てられる気がして怖かったのだと思う。

 

同じ出来事が、病の前に起こっていたら、いつものように自己犠牲的なやり方で仕事を受けていたかもしれない。

 

体が病をもって私に知らせてくれた。

 

もう時間がないよ。

もう自分のために生きなよ。

もう怖がらなくていいよ。

勇気を出して。

 

 

もう人の世話はしない。

自分のことをする。

 

 

 

 

満月に手放しの練習

今日は中秋の名月

 

うお座満月のキーワードは「共感」「調和」「変容」

 

満月には手放したいことを願うとよいとのことにて、久しぶりにブログに書いてみようと思う。

 

「強くなりたい」と小さい頃からずっと思っていた。

 

幼い頃から形成された、強さに対する私のイメージは、DVの父に対しても泣いたりしないで、平静に対応できる人間になることだった。

平静に対応できるという中には、動じてはいけない、怖いと感じてはいけない、泣いてはいけな等の自分自身への禁止事項が沢山含まれていた。

 

しかし自分に対する禁止事項が多いと、大人になるにつれ生きづらさがどんどん膨らんできて、立ち行かなくなった。

 

その後、いろいろな人と出会ったり、書物で勉強したことにより、「強い人間」に対するイメージは変容してきた。

 

強さとは自分の負の感情に蓋をすることではない。

強さとは己の感情をコントロールすること。

自分の傷ついた姿や弱さ、負の感情に正面から向き合うことこそ、真の強さである。

 

そうか、負の感情も感じていいんだと理解した。

自分の感情を誰でもない、自分自身が十分に感じきって、しっかり受け止めることが、

自分への癒しになるのだと理解した。

 

けれど、理解したのち、それが出来るようになるという次のステップに到達するのは簡単ではない。

 

負の感情が起きたときは、自分自身を知る絶好の機会であるとも言われているが、幸運にも?満月の今日、負の感情に至る出来事が立て続けに起き、気分はどん底である。

 

現時点では、その出来事の矛先が自分に向いて、他者からの拒絶感や見捨てられ感、自責の念にさいなまれている。

しかしこれらは事実ではなく、自分の傷から来ているのだろうなと漠然と理解しつつ、まだ吐きだして手放すには至ってない。

 

現状にある他者の問題ではなく、あくまでも自分の問題。

自分の問題だけれども、それは現状の問題というより過去の傷の問題。

ここまでは頭で整理できたので、自分をほめてあげよう。

 

そんな自分の傷に隠されている自分の気持ち

「悲しいよー」「嫌だよー」「やめてよー」「むかつくー」「辛いよー」「泣きたいよー」「叫びたいよー」「優しくしてほしいよー」etc

 

どんな気持ちもしっかり受け止めてあげて、一緒に悲しんだり、怒ったりしてあげて、自分をしっかり慰めてあげたい。

 

自分の苦しみは満月程に十分に膨らんだので、あとは手放して満月とともに欠けていくだけ。

 

自分の気持ちにしっかり共感して、本当の自分と調和できる自分に変容する時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新月に想いを馳せて

今日はしし座新月

キーワードは「正直・自信・決断」

 

私は満月や新月の日程をチェックしながら、その時々の自分の願いごとを書いている。

 

ちなみに、7月24日はみずがめ座の位置での満月とのことで、ある占い系サイト情報によると、今年の年間テーマにおける「振り返りと調整」のタイミングであるとのこと。

 

7月は、御仁との間で様々に考えさせられる出来事が起こったので、まさに今が振り返りのタイミングなのだなと妙に納得した。

 

 御仁は人々から尊敬される立派な人物であり、何より私は御仁を崇拝しすぎているところもあるので、御仁に何かを指摘するということはほぼない。しかも御仁は若干だが俺様的なところもあるので、何か指摘してもほぼ論破される気がする。

 

2人で過ごす時間であっても、御仁はよくスマホをいじる。

これは私にとって不快なことなのだが、これまでは指摘しなかった。しかしここ何度か目に余る行為に感じられたので、私は率直にそれを指摘した。

すると「急ぎの案件なんだ。」と瞬間、不快な表情を浮かべつつも、「ほらこれこれ・・・」と画面を示し、どう急ぎなのかを説明してくれた。

わたしとて急ぎの案件だとわかれば、納得ができるというものであり、「その件でしたか。」と落ちついて返した。

 

さらに御仁は「俺は独り占めできない人間なんだ」と発言した。

 

この発言に私は一瞬言葉を失いながら、自分の心がざわっとなるのを感じた。

あれ、このざわってなんだろうなあと自問自答しながら固まっているところに、

「あれ?なんかコメントないの?」と御仁が言ってきた。

 

そこで私は「うーん。なんてコメントしましょうか。っていうか、独り占めなんてしませんよ。」と落ち着いた口調でコメントした。

するとすかさず御仁は、「俺は2人で居ても、急に他のことを始めたりすることがあるけど、だからと言って大切にしていないわけではなくて、自分はそういう独特な行動をする人間なんだ。」と説明した。

 

スマホが急用であることや、自分の行動の意味を説明してくれたことは、お互いに理解しあうための努力だと思えば、御仁なりの配慮だとありがたく感じる。

わたしとしても自分の物差しだけでスマホ行動をみると、なんて無礼なと腹がたつところだが、御仁なりの意図や言い分があることを理解できれば、気持ちも収まるというものだ。

 

それにしても、「独り占めできない人間」という言葉にざわついた自分の感情を数日たってからも振りかえってみた。

この言葉を聞いた瞬間、すごくどきっとしたというか、ぐさってきた感じであった。反射的には、「独り占めなんかできるわけないし、するわけないじゃん。」と半ば、怒りにも似た感情が湧いた。

 

その背景には、2年前に私が御仁に発した不用意なメールに御仁が怒りをあらわにされたことがあった。それは体調が悪くても仕事をしてしまう御仁を案じる気持ちから、「休まないと怒る」とメッセージを送ったら、「しんどい時に絡むな。」と返信がきた。この時、私は心が凍りついてh放心し、これ以上メッセージを返せないという状況に陥った。ちょうどその時、県外への出張も重なり、距離も時間もおいて自分の頭を冷やすことにした。一日半ほど経ってから、御仁からメッセージが入るが、心が沈み過ぎて愛想なく事務的返答だけをした。逢える時間があるかという問いに対し、顔を見るエネルギーもなく、「逢いたいけど、先日のコメントがショックだったので、時間をおきたい。内省中です。」と返信した。

すると御仁は「反省は深くしないほうがいい。どんどん後ろ向きになるから。」と返信してきた。

私は「休まないと怒る」という私のコメントは体調不良の御仁に対して配慮が足りなかったとは感じていたが、間違っていると思っているわけではないから「反省」ではなく「内省」という言葉をあえて用いたのだが、それなのに「反省」という用語をもってくるあたりは、ただ気づかなかったのか、俺様的には私が悪いということなのだろうかと、若干いらっとした。

 

しかも、その時の御仁のコメントは、 「一期一会の時間を過ごしたい。」

 

このような経験からすると、「目の前にいる人を放置してスマホをいじるなんて、一期一会の精神に反しているよ!」というのが私の不満ポイントだった。

私は御仁を独り占めできる立場でもないし、持病をもつ御仁が明日倒れて永遠に逢えなくなるかもしれない中で、つかのまの一緒に過ご貴重な時間は、まさに私にとっての一期一会なのだ。

 

その日は、定例の帰宅後メッセージにあえて、「一期一会の貴重な時間に感謝です。」とコメントを送った。

この禅語を私が用いた意味に気づかない人ではないので、この件について私からこれ以上言うことはない。

 

しばらく日にちをおいて、この件について振り返ってみた。

 

そのとき感じたぐさっという感覚は、私が御仁を独り占めしようとしていたことを私自身が私に自覚させるために起こったことなのかもしれないと考えなおした。

 

しかも、「無礼なふるまいだ」というのは、人の行動をジャッジする行為であり、これはよく実父に自分がされて嫌だったことだと思い起こした。

 

一緒に過ごしている相手に、スマホをいじられることで、私の自尊心が傷ついていたのではないか。しかしそれは、一緒にいる相手にスマホをいじられるなんて、自分はスマホより価値の低い人間であると、自分が自分をジャッジしていたのだと気づく。

 

実父は、無礼なふるまいや自分の意に沿わないことを私が言ったり、行ったりするとぶちきれて怒鳴り散らした。私が御仁にしたことは、実父が私にしたことと同じなのかもしれない。

 

昨年の夏、久しぶりにブチ切れた実父に、「私はもう大人なんだから、自分のことは自分で決めるから。」と私は言った。それと同じように、御仁は私に「俺は自分の行動を自分でしたいようにする。」と言いたかったのかもしれない。

これは、私が「自分のことは自分で決める」と父に言ったことを私が思い出すための出来事だったのかもしれない。

 

さらに自分の意に沿わないことでブチ切れる父は、傷ついた人だったのだと気づく。

御仁がスマホをいじることで、私は自分がスマホより価値の低い人間であると勝手に傷ついた。

子どもが自分の意に沿わないことで、父は自己価値感が傷ついて、その反動でブチ切れたのではないか。

しかし、私が父の意のままに行動しなかったことは、父を傷つけようとしたわけではなく、自分の人生を大切にしたかっただけだ。

御仁が私の意に沿わない行動をしなかったことは、私を大切にしないわけではなくて、御仁自身の人生を大切にしたかっただけだ。

 

人の行動と自分の価値とは別物。

 

父のこと、御仁のこと、自分のこと、すべてがつながった気がした。

 

今日のしし座新月に願う

*私は自分の気持ちに正直に自信をもって行動すると決断する。

*私は自分の気持ちを正直に自信をもって他人に伝えると決断する。

*私は他人の気持ちを素直に受け止める。

*私は他人の気持ち尊重しながら、自信をもって自分の道を往く決断をする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相手に執着しない愛

AC的自分は相手に見捨てられるのが怖くて自分が嫌なことを嫌ということができないでいた。

御仁に対しても、不快に感じることがあっても自分の感情を抑え込んで、にこにこしてきた。

 

しかし、日々ACの傷を癒すための努力を重ねたためか、先日起こった不快な出来事の際に、頭で悩むことなく心から自然に、「嫌だよ」というメッセージを伝えることができた。

 

これまでなら、事前に今度こういうことがあったらこんなふうに言おう、言えるかな、怖いな・・・etc

頭で考えてばかりで、それだけで披露困憊で、実際に対面した時には、言えないということを繰り返してきた。

なのに、今回はじめて頭を通らずふわっ~と伝えることができたことに、自分が自分に驚いてしまった。

 

 

さらに驚いたことは、私が嫌だよと伝えた事に対する御仁の反応は、私が期待していた反応とは違って厳しいものだった。加えて御仁は、自分はこういう人間なのだということを私に解説してきた。

 

せっかく自分が気持ちを表明したことに対して、相手が意に沿わない反応を返してきたら、これまでのAC的自分だと、どん底に落ち込んで心が折れていただろう。

 

しかし今回の私は平気だった。

 

正確にいうとまったく平気というわけではないが、そんなことよりもこれまで自分が抑圧ばかりしてきた自分の不快な気持ちを正直に伝えることができたことに、この上ない満足感を感じていたのだ。

 

「自分の負の感情を自分がありのままに受け止めて、他人に媚びることなく伝える」

 

このことが、こんなにも自分を強くするのかと驚いた。

 

AC的な私が、ここまでたどり着く迄は、「不快な感情を持つ自分が悪い」と自分を責めていた。不快なんていわずに、どんな他人も受け入れるのが強さだと思っていたからだ。

 

しかし、そのうち自分が自分を受け入れて、それを他人に表明したときに相手の意に沿わないことがあっても、それはそれで構わないと思えるという境地まできていた。

 

自分が自分を苦しめながらも相手を受け入れることは、しなくていいのだ、するべきではないのだと思えるようになった。

 

「自分軸で生きよう」とよく書いてあるけど、頭ではわかる気もするが、AC的には実際にはどういうことなのか経験もなくわからないというの状況であった。

それでもなんとなくわかった気がするし、少しずつでも変化は起こるのだなと思う。

 

話を御仁とのことに戻すと、この時の互いの主張はまったく異なるものだったが、それらが対立するというよりは、それぞれにそうあっていいのではないかと思えた。

つまり、御仁に変わって欲しい等と思っていないし、だからと言って私が自分の気持ちをなかったことにしようとも思わない。

 

どちらの気持ちも、そのままあっていい。

 

ただシンプルに、私はこうだけど、あなたはこうなのね。ふーんそうなんだ。以上。

 

もし私の気持ちに対して、御仁がもし許せない気持ちがあったり、嫌だという気持ちがあったりして、一緒にいたくないということがあったとしたら、それはそれで仕方がないことだと思える。それ以上、追いかける必要はない。

 

だからと言って御仁に対する愛情がないわけではない。

逆に以前よりも御仁に対する愛情は増しているからこそ、相手を尊重したいのだ。

 

むしろ以前のような、御仁が離れていくなんて耐えられないという気持ちがあり、怖くて自分を出せず、相手に合わせていたころの自分は、自分の恐怖と対峙することに必死で、御仁に対する愛情以前に、自分をなんとかすることや単なる不安からくる御仁への執着でいっぱいで、自己愛でとどまっていたのではないだろうか。

 

自分の傷が癒される中で、御仁を本当に敬愛する気持ちを感じ、残り少ない人生の時間を御仁がやり遂げたい仕事を精一杯できるようにと心から願っている。

それができるために、近づきすぎないように遠くから見守るような距離を大切に意識してきた。

 

一方で、自分は自分の人生をしっかりと生きること、御仁には仕事上の大恩があるので、私が自分の仕事をしっかりと成し遂げることが御仁への恩返しになると思っている。だからこそ逢わない時は、逢えないことを嘆くより、精一杯、自分の仕事に注力するよう気持ちを整えてきた。

 

そんな風にお互いの人生をしっかりと生きるために、二人で過ごす時間は互いを癒し、またそれぞれが次の仕事にむかえるようなエネルギー補充の時間にできたらいいと思っている。

 

それがもし、私が私らしくありたいとか、自分の不快なことを相手が理解しがたいということが起きて、離れていた方がお互いにとってよりよい人生を進めるなら、そうしようと思う。

 

だからといって愛が消えるわけではなく、むしろ相手を愛するがゆえに、そうしたい。

 

 

ここ最近の自分の変化で、なんとなくそうかなと思っていたけど、今回の出来事でそれが確信に変わってきた。

 

「私は私で大丈夫。私はわたしのままで、御仁を愛することができる。」

 

 

このことに私が気づくために、今回の不快な出来事が起こったのかもしれない。

これまで長い間、自分を苦しめてきた自分のやり方を手放す時が来たよというサインかもしれない。

 

長い間のやり方は、体の隅々まで沁みついているので、今でも若干の違和感のようなものは感じている。

 

ふっとした瞬間に、これまで自分の中心にあった見捨てられる恐怖感のようなものが疼きそうになる。

 

けれど、そっと自分を俯瞰して眺めてみても、その恐怖の感覚は実態としては存在しない。感覚の残像に過ぎないようだ。

 

 

相手に執着しない本物の愛

 

自分の中に確固たる自信や強さを感じる初めての経験である。

よくここまで回復したなと思う。

 

御仁に出逢えたのは、ここに辿り着くためだったのかもしれない。

 

 

一期一会