吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分の気持ちはどうしたらわかるのか

AC的自分は、自分の気持ちを抑えて、周囲を優先させる能力が高い。

それを自分軸で生きなおすために、自分の気持ちをわかる練習中だ。

しかし自分の気持ちはどうやったらわかるのか、今日も悩んだ。

 

今日は御仁に逢う予定であった。

ここ最近の私は仕事が立て込み体調不良が続いていたが、御仁に言われたとなると少々無理をしてでも日程調整するというのが常であり、何とかなるだろうと予定していたのだ。

 

しかし、昨日もすこぶる調子が悪く、今朝も体のだるさによろよろしながらの出勤だった。

御仁に逢うためには、少々時間休を取ってあれしてこれしてと、ぐるぐると予定を考えていた。

これまでも体がしんどいことはあったが、逢えるとなると嬉しいから何となく元気が出てくるものなので、少々の無理は全然平気だった。

 

しかしAC的修行が進むにつれ、結局これって人のために自己犠牲に陥るAC的病気じゃないかと思うようになってきた。

 

さらに、年齢的なことも影響しているこのところの体調の悪さは、逢えれば元気になるというレベルを超えており、さらに私を悩ませた。

 

こんなにしんどいのに本当に逢いたいの?

本当は休みたいの?

 

何度自分に問うても、自分の本心がわからない。

 

「人の好意を断る」というのはAC的に最もハードルの高いスキルのひとつだ。

自分の気持ちがわからないならば、いっそのことAC修行の一環として、思い切って断る練習を実行してみたらどうかと、さらにぐるぐると考え始めた。

 

はてさて、このようなぐるぐるに一体どのくらいの時間を費やしただろうか。

 

「よし。決めた。断ろう。」

 

あまりに考え過ぎて疲れ果てたうえで、そう結論づけた。

 

そこからさらに、今度はどんな言葉で何というかという別のぐるぐるが始まった。

*仕事が終わらなくてと嘘をつこうか

*正直に体調不良といおうか

*体調不良で相手を心配させるといけない

*無理しなくていいよとしばらくお声がかからなかったら悲しい・・・etc

 

さらなるぐるぐるに疲れ果てた。

ひとまず準備をしつつ、御仁から時間の連絡が来た時の気持ちで決めようと思い、意図的に思考を止め、ふいにスマホを見たら御仁からのメッセージがあった。

 

体調が悪いので今日は休みたい

 

えええ・・・・先を越された。

AC的私にとっては、教科書のような断りの見本だ。

そうそう正直にこう言えればよかったんだよねと、自分に言ってあげたかった。

 

AC的練習としては、言われる前に自分が体調不良と言って断る練習したかったなと思い、「私も体調が悪かったので・・」と返信するかどうかで、さらにぐるぐるした。

 

しかし相手が体調不良だとわかった時に、自分の体調不良を伝えようなんて愚行だと思い、自分のことは棚上げにして返信することにした。

 

とにかくしっかり養生して欲しいです。

 

 

ほんとに些細なことだが、「・・・養生してください。」「・・・養生して欲しいです。」のどちらにするか、これまたしばらく考え込んで、何度も書き換えて、「欲しいです。」を採用した。

 

その意図は、自分の本心、欲求、要望がわからないAC的自分であるが、御仁にしっかり養生して無事でいて欲しいことだけは、明確な私のWANTSであることに確信がある。

だから、単に休むことを伝えるのではなく、私がそうして欲しいというIメッセージとして伝えようと思ったのだ。

 

こんなことにぐるぐると多くの時間を割き、他人の決断で幕引きとなる今日の自分。

 

そんな自分を俯瞰で眺めると、苦笑してしまう。

それでも自分を否定する気持ちはないので、少しはAC的成長もあるということだ。

こんな不器用な自分が愛おしい。

 

今日の出来事は、私が本当に言いたいことを私自身が知るための練習の機会を神様がくれたんだと思う。

 

私が私に言ってあげたい。

 

「体調が悪いので今日は休みたい。」

「とにかくしっかり養生して欲しいよ。」

「私は私の気持ちを正直に相手に伝えていいんだよ。」

 

 

 

 

 

自分の気持ちを感じる練習

『自分にとって嫌な出来事は、自分の中にある負の感情を吐き出すためにその出来事が起こったのだ』

 

このような記事を読んだ時、その視点が新鮮かつなるほどそうなのか~と思った。

 

AC的なわたしにとっては、不快な出来事とは、ひたすら自分を責める材料にしかならなかったからだ。

 

*私の何がいけなかったのだろう

*私がどう改善・努力すれば今後このようなことが起きないだろう

*今の自分じゃだめだ・・・etc

 

「不快な出来事が起こるのは、自分の感情を吐き出すため」と頭にインプットしたものの、意識しなければ自分攻撃のつぼにぐいっとハマってしまう。

 

これまでやったことがないことを習得するのは、やっぱり練習あるのみなのだ。

 

 

『大人になれよ』

 

先日、御仁にこう言われた瞬間に、私の心はぐさっーと反応した。

瞬間的にはいつものように反応していた

*今の自分じゃだめだ

*大人にならなきゃ

*ちゃんとしなきゃ

*そんな風に言うなんてむかつく

*御仁に見捨てられる・・・etc

 

我ながら、こんな些細な一言なのに、なんでそこまで???ってびっくりするほど、

心が痛くて苦しくて、血の気が引く感覚があった。

 

数日後にふと、不快な出来ごとの意味に関する記事に再び目に留まった。

 

そこに書いてあることによると、

占い師でも誰かにでも、「こうしなさい」と言われたからこうするのではなく、その言葉に対して、「自分がどう感じたか」に基づいて決めることが大切。

「こうしなさい」と言われて不快を感じたとしたら、自分にとってそれは違うよってことを知るために「こうしなさい」と言われる出来事が起きたのだというのだ。

 

そこで「大人になれよ」と言われたこと対し「大人にならなきゃ」という自分の考え(これは気持ちというよりは思考なのだ)を一旦脇に置いて、

この「大人になれよ」と言われたことに対し、「私の心がどのように感じたか」を観察してみることにした。そして、以下のような気持ちが感じられた。

 

*子どもである私を受け止めてほしい

さらに、「受け止めて欲しい」というのは誰にそうして欲しいの?と深堀してみる。

 

ここもまだまだ思考レベルの練習中なのだが、知識としては他人=自分であり、他人にして欲しいことは、実は自分がしてあげていないというようなことを読んだことがある。

 

御仁に言われた瞬間、御仁に対する怒りもなくはなかったので、もしかして?これは御仁に受け止めて欲しいということかなと思いそうになった。

しかしここでは頭でっかちな知識を参考に無理やりにでも考えてみると、

いやいやこれは私自身にそうして欲しいということじゃなかろうか

 

なるほど、なるほど。

 

「大人にならなきゃだめだよ」「子どものわたしじゃだめ」「ちゃんとしなきゃだめ」「子どものままの私、ありのままの私じゃ、見捨てられるよ」・・・etc

 

これらの言葉は、私が私に言っていたのだ。

 

となるとだ。

 

*子どもっぽいあなたも大好きよ

*子どもらしさを楽しもう

*自分の中の子どもをうーんと癒してあげよう

*もっともっと子どもらしくいよう・・・etc

 

そんな風に自分が自分に言ってあげようと思えた。

 

AC的自分は、子どもらしくいることをいつも禁止されていて、あーしろ、こーしろ、これじゃだめだ、こうしないと縁を切るぞ、怒鳴る、殴る・・・etcという世界を生きてきた。

そこを生き延びるために、自分は子どもでいることを自分に禁じてきたのだ。

そして自分の中の子どもは、小さく小さくうずくまり、声をひそめて泣いていた。

 

インナーチャイルドを癒すことが、ACの回復への道とわかっているつもりなのだが、自分の中に沁みついている、「自分への禁止」「自分への批判」という癖は、一足飛びにはなくならない。

 

それが手放せていないよということを気づくために、「大人になれよ」と人からの言われ自分が不快に感じるという出来事が起こったのだろう。

そう気づいても、自分の中の見捨てられる不安がゼロにはならないが、エネルギーを使う方向がまったく変わる。

これまでなら自分の中の子どもを否定しいじめるような方向にエネルギーを注いだだろうが、今回は自分の中の子どもに「怖かったね。否定された気がして悲しかったね。でも大丈夫だよ。あなたはもっともっと子どもらしく楽しんでいいからね。また来てね。」と言ってあげられる。

 

大人になれよと言われて不快な気持ちになったことで、私は自分の中にある自分の傷に気づいてあげることができ、だからこそその傷を癒すことができる。

 

もっともっと子どもらしさを楽しみますっ!

 

 

 

心のぽわん~を信じる

人の本質は発する言葉ではなく行動にある

 

わかっているけど、女子は言葉を欲しがる傾向にあり、私もそのひとりだった。

 

女子の怒りを収めたいがために、ごめんごめんを連発して、実は行動は改めないという男子もいれば、軽々しく謝ることはせず黙って行動を改めるという男子もいる。

冷静に見れば後者の方が誠実なのだが、女子的にはわかっていてもまずは言葉に着目してしまうというのがやっかいなところで、言葉に拘るからこそ言葉に苦しめられてきたともいえる。

 

そんな拗らせ女子の私もいよいよ言葉を手放そうと思えた出来事があった。

 

御仁は言葉ではなく行動を見て欲しいと主張する人間だが、私が崇拝しすぎるがゆえに、彼の行動だけではなく発する一言一句のすべてをダイレクトに受け止め、勝手に傷ついたり右往左往していた。

御仁は強くて優しい人間なのだが、彼自身が自分に厳しいところがあるので話す言葉が厳しくきつく感じられることが多々ある。そのような言葉を耳にするたびに、私自身が批難されたような傷ついた気持ちになった。最近では少々慣れたものの、出逢った頃は怯えすらあり、その瞬間もう逢わないでおこうと何度も思った。

 

しかししばらく離れて言葉に怯えたこと以外を思い起こすと、温かい気持ちがほっこりしていて、また逢いたいなと素直に思うし、逢う前になると楽しくて可笑しかった出来事だけが思いだされて一人で噴出してしまうことすらあった。その度に不思議だなあという感覚で終わっていた。

 

御仁といえども言葉は言葉に過ぎず本質ではない

 

ここ最近も御仁の毒舌に若干、心がざわざわしたところがあった。

 

一方で、御仁の何気ない行動や空気感から私自身の気持ちが喜んでいるのがひしひしと感じられた。

 

私は人の言動をあーでもないこーでもないと分析して勝手な解釈をする特徴があるのだが、それはAC的傷つきから心を守るために幼い頃に身に着けた方法だったのだと思う。しかしこういう方法は、自分の中の恐怖心から生み出されたものであり、妄想的な見方が多く、たいてい間違ったものの見方が大半のようであった。

 

そろそろこの間違った方法を手放してもいいかな・・・。

 

なぜなら御仁の毒舌から感じる私のざわざわには、私が言葉を妄想的に分析した結果が含まれているから。

 

しかし自分が感じたほっこり感は、心からダイレクトにぽわんと湧いたものであり、頭の思考を経由していない。

 

重要なのは頭を経由していないということ。

 

心にぽわん~

 

言葉、文字は、頭の回路を通らざるをえないので、どうしても自己解釈や妄想が入りがちだ。

しかし文字にしても、単なる活字ではなく、その人が実際に書いた文字を見ることの大切さを奇しくも御仁が話していたことを思いだした。

それはつまり、「見る」ことは思考を通らずにダイレクトに「感じる」ことが可能になるということではないだろうか。すると文字を見たときに、自分の心にぽわんと浮かんだ感じから、その文字を書いた人物像や気持ちなどを「感じる」ことができる。

 

思考ではなく自分の感覚でまとめてみると

 

御仁の毒舌の内容を分析することはせず、毒舌で語る彼を感じることに集中する。

一緒に過ごすときの行動や空気を感じることに集中する。

 

そこで自分の心にぽわん~と湧いたものをそのまま感じとる。

 

その自分の心のぽわん~を大切に受け止める。

 

そういう俯瞰で過ごした時間を眺めてみる。

 

彼が発した言葉や自分が分析したジャッジを手放してみる。

 

後に残ったのはほっこりした心

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とうとう体調を崩す

前回の記事に書いたように、私は自分を蔑ろにしない練習をすると決断した。

そして自分の仕事が佳境なことを優先して、人からの誘いを先延ばしにするというチャレンジをした。少々そわそわしつつも、これは大切な練習なのだと自分を励ました。

 

そして体調を崩した・・・。

 

アラフィフらしく、ここ最近は普段から疲れ易かったりはあった。それに、私は仕事での決断は得意なのだが、自分個人の選択や決断となるととても苦手であり、エネルギーを消耗してしまう。それはAC的に自分の感情や欲求を抑える癖があるので、改めて「どうしたい?」「どっちが好み?」等と聞かれても、自分の感情が答えられず苦悩してしまうのだ。先週はそんな選択を迫られたり、人とのやり取りの中で大きなストレスを抱える場面が続きへとへとになっていたのだ。

 

とうとうヘルペスを発症し、食事も通らず、ぐったりして動けなくなった。

 

しかしAC的な自分が、人を優先するあまり自分の体の声を聴かず、不調にも気づかないふりをしてがむしゃらに仕事をしてきた自分が、自分をも騙せないほどの明らかな体調不良に陥ったことで、気づいた。

 

あー、これは体が私に知らせてくれているのだな。

『無理するな。』『自分を大切にしろ。』

 

おかげで、普段の自分なら自分を優先することに罪悪感を感じるのだが、罪悪感を感じないでいられた。しかもヘルペスはウイルスが関与するので、私が逢わないことは相手を守ることにもなるため「自分を優先した自分」というだけではなく、「相手を守るために行動できる自分」という立場でもあり、自分の自己肯定感もUPさせてくれた。そういう意味では、本来の「蔑ろにしない練習」には至っていないかもしれないのだが、新人の練習と思えば、まあ合格としようと思う。

 

今回の体調不良は我ながら本当に辛くて、人のことを優先するどころではなかったのだが、私が自分を優先する行動ができるようになるために、神様がきっと私に体調不良というギフトをくれたんだなと思ったりした。

 

この度、新人ステップの練習ができたので、次回は病気にならずとも自分を優先できるというを目標にしようと思う・・・。

 

自分を蔑ろにしない練習

私はACにありがちなように、自分を蔑ろにして人を優先するところがある。

人のことを心配し、身を粉にして世話を焼き、気が付いたら自分の為すべきことが置き去りになっていたり、心身がボロボロになっていたり、挙句の果てに感謝すらされず虚しさだけが残ったり・・・。

 

それでも人のために成したいことが、自分の人生で成したいことと合致した場合は、エネルギーを使ってもまあよいかと思うのだが、時として自分の本当に成したいことと、人のためにということとの区別がつきにくいというAC的性質もあいまって、その都度自分の声によく耳を傾けなければと自分に言い聞かせている。

 

ここ最近、御仁との間で起こる不快なことを俯瞰で眺め、これらのことから私は何を学ぶべきなんだろうか、このことを契機に私はどのような成長の課題が与えられているだろうかと改めて考えてみた。そして気づいた。

 

私は御仁を崇めて、自分を蔑ろにしている

 

AC的な私の課題は、まずは自分を愛することだと、頭ではわかっているつもりだったが、御仁との関係では、御仁は立派な人、私は御仁より劣っているという意識が根底にあった。

だから御仁から配慮がないことをされた時の辛さは、御仁に対しての怒りもないわけではないが、自分はそういうことをされる人間なのだと自分をラベリングする辛さであったり、堂々と御仁にそういうことはやめて欲しいと言えない自分を責める辛さであった。

 

つまり私に対して御仁がどうのこうのではなく本質的問題は、

 

私が私自身を愛せていたのだろうか

 

私が御仁を敬愛していることは確かだ。

しかし、どんなに御仁を敬愛したとしても、それ以上に私は私自身を愛すべきなのだ。

普段は「べき論」で自分をがんじがらめにする癖があるので、意識して「べき」とか「絶対」等という言葉を使わないようにしている。

しかし、この世に生まれてきたからには、「自分が誰よりも自分を愛するのは絶対!」なのではないか。

 

そこで、自分が誰よりも自分を愛する結果としての行動を選択する練習をしようと思った。ちょうど御仁と逢えるかもしれない日程がやってきたのだが、自分の仕事の佳境と重なっていたので、御仁に逢う時間をとるのが難しい状況であった。しかし、これまでの自分なら、仕事で寝れない日々が続くとしても御仁に逢えることを常に優先していた。

御仁が声をかけてくれていることに対して、私が自分のことを優先して断るなどということは考えられないことだったし、もし自分が人の好意を断るならば、相手が悲しむことを想像して自分が苦しくなるというAC的性質が大いにあったからだ。

改めて思うとAC的性質とは不思議なものだ。自分が相手に断られても、私の悲しみなんて取るに足らないと自分の悲しみは平気で蔑ろにする一方で、自分が断る時は相手の悲しみを自分の悲しみに重ねて、自分が無理してでも悲しませないようにしなければならないと義務感を思ったりする。

しかも御仁は強い人間であり、私と逢えないことぐらいで悲しむような人でもないとわかっているのに、私が無理してなんとかしなければと思うところが、やはりAC的病気だ。

 

そこで、私は自分のことを大切にするために、自分の成すべき仕事を優先して、今回御仁と逢わないことを決断した。そして、この決断によって自分がどのような感情になるかを、俯瞰的に観察してみることにした。

 

案の定、自分が断ることによって御仁に生じる悲しみという感情を想い、落ち着かない気持ちになった。けれど、これはどっからどうみても自分の妄想に過ぎないと自分に言い聞かせた。

 

しかもこの悲しみというのは、自分が子ども時代に親から拒絶されたり、見放されたりしたときの私自身の感情なのだと思った。だから、私が気にかける必要があるのは、御仁の悲しみではなくて、私自身の悲しみに焦点を当てて、「あの時は悲しかったよね。でも大丈夫だよ。」と自分が自分をケアしてあげる必要があることを、この出来事は教えてくれているのだと思う。

 

こんな風に、頭でわかったつもりでも、自分を大切にするために優先する等という、これまで不慣れなことを選択したわけなので、そわそわと落ち着かないことは事実だ。

 

何事も練習

 

相手を優先しないことが怖くて怖くてしょうがない自分もいるが、自分を大切にしようとして怖いながらも今回のチャレンジを選択した自分を褒めてあげたい自分もいる。

しかも私が私を大切にしようと選択した結果、御仁との関係が壊れるとすれば、悲しいのは事実だが、それはそれで仕方がないことだと思う。

自分を優先するのは、御仁を敬愛するがゆえであり、自分をさらに磨いていつも御仁と対等な関係をでいたいからだ。

 

今は当たり前に乗れる自転車も、初めてチャレンジしたときは、ふらふらして足をついたり、転んだりしながらも、練習を重ねることで乗れるようになった。

 

「自分を蔑ろにしない練習」はこれからも続く

 

その時の自分を責める今の自分

以前のブログに少しだけ書いた御仁と過ごす時間で起きた不快なこと事件

 

私は御仁病を脱するのだ!という強い決意で、今度そのことが起こった時には、自分の中に起きたもやっとした気持ちを蔑ろにしないで伝えるという目標を立てた。

 

「それは控えて欲しい」

「やめて欲しい」

「それをされると悲しい」

「それは遠慮して欲しい」

等など。

 

どのように言えばよいか、あれこれと頭で準備していた。

しかし、その後いざ御仁にあった時にその不快な出来事が起きなかった。

前回のとき、私は不快であるということを言葉で伝えられなかったものの、若干だけ態度に滲んでいたかもしれないので、もしかしてそれを察してくれたのかな等と思い、ちょっとほっとしたり、嬉しくなったりした。

 

そうして気が緩んでいるときに、元カノの話題事件勃発・・・。

 

持病を持つ御仁にとって元カノは命の恩人でもあり、美人で自慢の存在なのだというのが私の見解なのだが、私と過ごすときにも過去のエピソードが何度が登場していた。そのたびに私は嫉妬のような感情で苦しくなるのだ。

しかし、嬉しそうに話す御仁に悪いと思い、ニコニコ笑いながら話を聴いていた。それでも後々辛い気持ちを引きづって苦しいので、「私は元カノの話を聴くのはしんどい」等と正直に気持ちを伝えようか、伝えてもいいかなとか、さんざん悩んだが、嫉妬なんて感情は御仁に言わせれば「過去に拘るな」と一蹴されそうな気もするので、怖くて言えなかった。

 

それで数年耐えてきたのだが、年月を経ると自然と元カノの話も少なくなっていたので、何とかやり過ごすことができていた。そんなふうに気持ちが緩んで油断していたところに、元カノ話題事件が起きたため、自分の心に沸いたもやっとした気持ちを受け止めることができず、いつものように自分の気持ちを瞬間的に閉じ込めて、楽しそうに振舞いながら話を聴いた。前述の不快事件が起こらなった嬉しさもあり、自分から事を荒立てたくないという気持ちもあった。

 

「事を荒立てたくない」というのも自分の気持ちだから、その時はその時で自分の気持ちを尊重したということでいいのではないかと自分に説明した。

しかし私にとって元カノの話が嫌だというのは、その瞬間もやっと体に感じたことも事実だ。

こうなると、何が本当の気持ちで、どうすべきだったのかと、自分の中でぐるぐるとしてしまい訳がわからない。そのうち、あの時本当は自分が不快だったのに、自分はそれを隠した、自分の気持ちを蔑ろにしたんだと、その時の自分を今の自分が責め始める。

 

おやおや、『自分を責めるのをやめる』って言ってたのに、やっぱり自分を攻撃しているなと気づいて茫然とし疲労困憊。

そんなこんなで意気消沈して10日程たったところで、ある会場で何と元カノ本人を偶然にも見かけてしまった。彼女が経営する会社のHPを見たことがあり、綺麗な人だとは知っていたが、実物を見たのは初めてだった。私よりも10歳くらい年上なのだが、やっぱり美しい人だった。それにしても、なぜこんなに私が落ち込んでいるときに、本物彼女に遭遇せねばならなかったのだろう・・・。

 

そっか、私のもやもやをとにかく吐き出しなさいということだな・・・。

 

そこで改めて、今度元カノの話がでたらこのように言おう、いやいやあくまでもその瞬間の気持ちで決めよう等と、瞑想しながらあーでもないこーでもないと考えていたら、だんだん馬鹿らしくなってきた。

 

私は何でこんなことをいつまでもやっているのか。

そもそも2人の間に、元カノのことは関係あるのか????

元カノを自分たちの舞台に上げようとしているのは、御仁でもなく、元カノでもなく、私じゃないか!

 

ばかだな私・・・。今日はもう止め!

 

ということで、ひつまずこのブログに気持ちを吐き出して、

元カノドラマは最終回にしたい。

 

 

 

 

頭の声と心の声

自分の声を聴くときに、『頭の声』と『心の声』という2つの声があることが理解できるようになった。

様々な本の中でも、精神と感情として、あるいは心と魂として区別して表現されており、その時々ではわかった気になっていた。

けれど、改めて意識して自分を俯瞰的に観察してみると『頭の声』が中心となっていたことに気づく。その気づきのきっかけとなったのが、以下の本である。

 

〈からだ〉の声を聴きなさい:リズ・ブルボー著

 

この本はACという切り口ではないのだが、ACが陥りがちな辛さから解放されるための対処について、具体的に書いてあるのでお勧めである。

ここでは、頭で考えることを左脳的知性と表現しているのだが、大切なのはからだの声を感じ切ることであるとしている。読み進めていくうちに、私が自分の声としてとらえようとしていたのは、左脳的知性つまり頭で考える自分の意見のようなものに過ぎなかったのかもしれないと思った。

 

自分の本当の声とは、頭で考えるものではなく、自然に沸き起こる感覚として感じ取るものなのだ。だとすると、自分の声を聴くというのは、自分に問うことであり、問うた上で自分の内面からどんな声が湧いてくるのか静かに俯瞰で内面を眺め、感じる取るということなのだ。

そのため自分が自分に問うた後に、自然に湧いてくる声や、感じきれることを『待つ』ことになるのであり、少々時間を要することもあるだろう。

 

『ちょっと内側の自分に聴いてみるから待っててね』

 

まさに、内側にいるもう一人の自分、本当の自分に意図的に逢いに往く、その声を聴きに往くという感じだろう。

この感覚を得た時、もう一人の自分、本当の自分は、左脳的知性である普段の自分がコントロールできる存在ではなく、自分の中の別の人格としての友人の意見として聴き、そのまんま知るということなのだ。

 

自分の中にある本当の自分というものは、左脳的知性でコントロールできるものではないと理解する時、他人をコントロールしようと苦悩してきたAC的な行動が、もはや幻想にしか過ぎないことが腑に落ちてくる。

 

ふっと理解できたつもりでも、またいろいろな波風が立って自分も他人も何とかしなければといきり立つことがあったりと、行きつ戻りつするのだろう。

 

けれど、そんな自分に対しても、「あーまたやっちゃったのね。よしよし。」と、優しく抱きしめてあげることはできる気がする。

 

最も愛すべき存在は、他人ではなく自分の内側にある真の自分という友人