吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

すべては必要だった

年末から何だか気分が落ち着いている

何が効いたかと言うのは,勿論ひとつではないのだが、

昨年から出席している斎藤学氏のMTの影響はとても大きいと思う。

 

斎藤先生の著書は何冊も読んでいて、語られる文章から滲む愛情というか慈愛のようなものを感じることでも随分と癒されてきた。

 

それに加えて、MTに参加して実際のやり取りを体験することは、書籍では自己対話に留まってしまうのに比べ、想像以上に自分の内部に影響しているのかもしれない。

 

対人恐怖がある自分は、自分の一挙手一投足が相手の勘に触れないかどうかが心配でビクビクしているし、勘に触れないような、相手に望まれるよう言葉を選び振る舞うことは、絶対に必要だと思っている。

いやもっと正しくいうと、思うと言うより前に、体がそう反応する。それは幼い頃から、横暴な父の元で生き抜くためにみついた技ともいえる。

そしてどんなに手放したくても、染み付いた感覚はなかなか取れないし、本能として怖くて手放せないのかもしれなかった。

 

斎藤MTで、斎藤先生と参加者の対話を聴いている際も、私は参加者の話をずっとジャッジしていた。

ああ、そんな同じことばっか言っていたら、斎藤先生いらいらするんじゃないかな、怒ってないかな、うんざりしてないかなetc。

他人の話にも関わらず、それだけで疲れてしまう。

けれども、実際は斎藤先生はずっと話に付き合っている。

それが治療者という仮面をかぶっている感じでもないし、話し手も自然な感じがする。

なんでこんな内容を聴衆の面前で話しているのだろかというような、四方山話もある。

しかし、そんな四方山話だからこそ、聴衆として参加する私は肩の力が抜けて、それでいいんだと思えたのかもしれない。

立派な話でなくても、理路整然としてなくても、相手がどう思おうと、自分の話したいことを話せば、別にいいじゃないか。

斎藤先生は著書の中で、治療者としてでなく、人として関わる必要性について述べている。

私のイメージする治療者は、人としての自分の感情を抑えて、患者にとってふさわしい振る舞いをする必要があると考えていた。

ひたすら患者の話を聴かねばならぬと思っていた。

けれど、斎藤先生はよく話す。

参加者の持ち時間の半分くらい話して、当該者が聞き役になっている時もある。

何だかずっこける気持ちもあるが、このずっこけ感にこそ意味があるような気がしている。

ずっこける私には、こうでなくてはならないというべき論があったからだ。

あら?このべき論いらないんだというずっこけ。

だからといって、斎藤先生が精神科医としての専門性を放棄しているわけではない中で、人として対話することの大切さが伝わってくる。

人として対話する姿から、すべての症状は、その必要があった、それでいいではないかという著書の文章の意味が体感としてわかった気がする。

 

子どもの頃からアラフィフの今まで、私は横暴な父を批判しつつ、男や権力負けないことを目指す一方で、それらにひどく怯えて生きてきた。

人に蔑ろにされることに怯えながら、自分を蔑ろにして疲弊するまで働き、上司にはむかい、夫を攻撃して、自分を攻撃して疲れ果てた。

けれど、いま思い起こしても、その時の自分はそれが必要だった。

わたしなりに一生懸命、必死で生きていた。

それで何が悪いのだ?

 

それが私がこの両親の元に生まれてきた運命であり、その私でなければ成し遂げられなかったことが沢山ある。

それが私が私として生きる意味だ。

 

すべてが必要なことだった。