吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

私は自分を大切にする

自己認識が大切と言われるけど、

これが結構難しい。

べき論や正しさ、

いい人、立派な人、

そういう正解でなければと染みついているから。

 

自分を知るために、

いま眠いとか、

いまムカついたとか、

その時々の感覚を意識するよう修行中。

 

そんな折、

私にとって鬼門ともいえる9月がやってきた。

御仁と職場パートナーの誕生日をめぐるもやもやを抱えて、

私のメンタルダメージが大きくなる時期。

 

これまでは、もやもやする自分は未熟者だと

自分責めに終始していた。

しかし昨年は違った。

自分のもやもやを御仁に伝えることが出来た。

これは誕生日ごときで騒ぐのは立派な人間とは言えないという

自分の思考より、もやもやするという自分の感覚を優先出来たという

私にとって今世紀最大の進歩の局面だった。

 

女史のお祝いはするのに

わたしの誕生日はお祝いどころか

忘れてさえいることの不満を知った御仁は、

「次はささやかなお祝いしよう」と返答した。

それで私はひとまず機嫌を直したものの、

その半年後の誕生日はLINEメッセージはきたものの、

会った時にはなんのお祝いも無かった。

その時はその2ヶ月程前にも別のもやもやをぶつけたばかりだったので、

もやもやすることにも疲れたし、

それを正直に伝えるエネルギーも枯渇しており、

私は黙ってやり過ごすことを選択した。

 

月日の流れの中では

当然、誕生日以外の様々があり、

御仁との間に嬉しいこともたくさんある。

すると誕生日という一点を取り立ててもやつく自分が

とても未熟者に見えたりして、

また自責の念が湧いた。

 

嬉しいことに目を向けて、

誕生日ごときに拘らない立派な人間になろうと思ったし、

なれた気もした。

しかしそれは自分のもやもやに蓋をしたにすぎなかった。

 

女史の誕生日前に御仁と逢った際、

FBでおめでとうメッセージを送ることについて話題になった。

御仁はFBでおめでとうメッセージ送らない。

おめでとうという反対側には

誰かを亡くしている人もいるのに、

SNSはそういう人への配慮がないよねと言った。

 

いやいやあなたは毎年、女史の誕生日をケーキ画像付きで

お祝いして投稿してますよね、、、。

しかも自分の誕生日に100人越えのお祝いメッセージの対応に疲れて、

もう誕生日なんて無くなればいいのにと私に呟きながら、

FB上の誕生日公開を続けてますよね。

嫌ならやめればいいのに。

(とは怖くて言えなかった)

 

昨年の女史誕生日のお祝い投稿を契機に私がもやもやをぶつけたこと、

今年の女史誕生日直前のSNS配慮の話などなどで、

今年の女史誕生日はFB投稿しないかもなあとか、

もうして欲しくないなあとか思っていた。

でも投稿してたら自分のメンタル下がるので、

女史誕生日から3-4日FBを開けなかった。

今日は少し気分がよかったので思い切ってFBを開けることにした。

ただしばあーんと画像を見るとしんどいので、

数ミリずつ下に下げながら。

 

すると案の定、女史の誕生日祝いの文字が見えたので、

画像が目に入る前に急いでFBを閉じた。

 

ああ、胸が苦しい。

でもなんでそんなに私は苦しいのかと原因を探ろうと思った。

以前は女史への嫉妬かなあと思ったが、そうでもない気がした。

嫉妬とは自分には無いと感じる場合に起こると何かで読んだことがある。

確かに誕生日祝いという点では、女史は持ってて私は持ってない。

けれど私は御仁との間に沢山の嬉しい時間を持っている。

じゃあ他の原因はなんだろう。

 

今日新たに思ったことは、

神格化レベルで尊敬している御仁が言行不一致であることがひとつかなと感じた。

神格化するが故に自分がもやもやする自分を、御仁より下に置いて自責してきたのに、

口先ばかりの人間なのかという怒り。

そんな御仁への怒りは、翻って自分に向いていた。

つまり私が自分より御仁を上に置いて自分責めをしたことに対する

自分自身への怒りを感じた。

毎年繰り広げられる誕生日事件だが、

女史に対する嫉妬のようなレベルから自分への向き合いに変化したことを喜ぼう。

 

私は御仁を神にして自分の行動規範にすることをやめる。

御仁も言行不一致もあるただの人間であr、神じゃない。

私は自分の感覚を正確にして怒ればいい。

自分の感覚を他人の基準で決して封じない。

例え御仁であっても。

誕生日事件も、御仁の言行不一致も、神さまから私へのギフトだ。

私は誰よりも自分を大切にすると覚悟を決めた。