吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

善意への恐れを手放す

親の機嫌にアンテナを張って生きてきた分、

相手の機嫌が気になるのは仕方ないかなと、

それは自分の一部として認められるようになってきた。

 

機嫌が気になるとしても、

責められる、批判される等の恐怖心は、

随分と減ってきた。

 

ある程度の気になりは、言葉をかえると空気がよめる、配慮ができる等と肯定的にとらえてみようと思うし、恐がってる自分でもいいじゃないかと思えるようになってきた。

 

そんな折に、今日の体験で、相手からの攻撃よりも不得手なのは、相手の善意への対応であることを思い出した。

 

相手の善意が、自分にとって不本意であったり受け取りたいと思わない場合に、それを受け入れないことに罪悪感を感じる。

攻撃はかわせばよいが、善意はどうすればいいか。

 

裁縫が趣味の友人が、製作した衣服を私にくれるというのだが、柄が派手めで私の好みではなかった。

「私には派手かな〜」

と正直に言葉にしてみるが、

とにかく試着してみてというので、着てみると「素敵じゃないの。似合ってるよ。持って帰って。」と、勧める。

気持ちが乗らないが、そんなに勧められては断るのも悪いなと思い、持ち帰ることにした。

 

帰り際に友人が

「それ売る場合は1万円だから、今度なんか奢ってくれたらいいよ!」と言うので、思わず「えっ!私、買ったの?」と声を上げてしまった。

すると友人は「いやあ〜、そこで期待してはいけないから、いいんですけどね」と。

その表情が、なんだか寂しそうに感じられたので、私はもやもやした。

 

このもやもやを解説すると、

友人は裁縫が単なる趣味であったのだが、近々マルシェなどで販売出来るようステップアップを目指している最中だった。

その際、自分の作品の価値を価格に表現するのが悩みのタネだと話していた。

だから、作品を受け取る私が、彼女が思うような価格の価値を受け入れる反応が期待されていたと思う。

しかしこの作品は私にとっては、その価格の価値と等価ではなかったので、2人の間にはギャップが生じた。

 

寂しそうな彼女に対して、罪悪感のような感覚があった。

ただ罪悪感と言っても、昔の感覚とは違う。

以前なら、私が彼女の期待に合わせられなかっことに対する罪悪感を感じただろう。

今日の場合は、商品化に向けステップアップしようとする彼女の友人としては、この作品が好みでないこと、だから受け取らないことを正直に言うべきだったのではないかというものだった。

ただ、「べき」は私にとっては要注意Wordである。実際、彼女とのやり取りの瞬間ごとに私は心の声を聴き、表出するという2人の関係性、相互作用の結果なので、そこに良い悪いはなく、べき論や反省は無用なのではないかと思う。

ただ起こったことをあるがままに受け取ること、商品化への彼女の想い、彼女が作品を渡したかったという気持ち、私の趣味感覚、彼女を喜ばせようとする必要はないこと、好みじゃなくても試してみてもいいんじゃないかという軽い感じ、ちゃんと着こなさないと悪い等と思う必要はないこと等。

自分より相手を優先しよう等とせず、まず自分の気持ちを感じ、相手の気持ちも感じ、正直なやり取りをする。

優劣、良し悪し、正解不正解等のジャッジをせず、あるがままに受けとめること。

 

今日の出来事は、私がこのことを理解する為のものだったのではないだろうか。