吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

渇愛ではなく慈愛

恋と愛の違いは、以下のようなところにあるらしい。

 

 

恋とは、「恋が叶う」というように、相手を愛するように見えて、実は相手が自分を愛してくれることを望む。つまり渇愛

愛とは、自分が愛して完結し、自分が愛されることを望むものではない。つまり、愛とは求め欲するのではなく、慈しむ心からしか生まれない。つまり慈愛。

 

ACの根底には、愛情に対する深い渇望感があり、それが相手に執着することにつながっていると理解している。しかしコロナ禍の中、常に死と隣り合わせで永遠の別れを意識するとき、ACである自分が、相手に多くを求めずシンプルに生きていることに感謝できる感情を経験し、自分が随分回復したものだと感じることがある。とにかく生きてさえいてくれたらと思う時、これまで常に相手が自分を満たすことを要求し、かなわないと切れていたAC的自分が、初めて「人を愛する」ことを体験したと感じたりした。

 

けれど感情というのは、良くも悪くも常に変わるもの。

 

今日このブログを書くことにしたのは、御仁に対し私の心の調子が相手を慈しむ具合でなく、やや渇愛に寄っていることを自覚したので、そんな自分に罪悪感を覚えたり、自分を批判したりせず、「そんな風に自己中になることがあってもいいじゃないか。永遠に自己中なわけじゃないんだから。明日は、いや1時間後でさえ、どんな自分になってるかわからないよ。」と自分に言ってあげたいと思ったからだ。

 

これまでのAC的自分の悪癖は、自分の中で切れてしまうと人をシャットアウトする等、破壊的行動に出てしまうところだった。しかしある時、自分の感情をできる限り客観的に観察していくと、AC的負の感情は、土日に起こりやすいことを発見した。つまり、平日は仕事等の目の前の出来事に注力しているので、人が自分に何かしてくれないということにあまり関心がいかないですむが、休日は自分の関心がついつい自分に向かってしまうため、自分の思い通りに人が対応しないと、自己評価が下がりまくり、自己批判や罪悪感、ひいては他者攻撃等に苛まれ始める。

こんな風に自分の感情を客観的に捉える前は、負の感情の勢いで、破壊的なメールや行動をしてしまったりしたが、最近では「ああ、今日は日曜日だからか。とにかく今頭に浮かぶ破壊的な行動を月曜日まで保留にしよう。月曜日になっても、まだそのように行動したければ、その時にまた考えよう。」という段取りが取れるようになってきた。

 

何といっても今日は日曜日だし。

何より、私が落ち込んだ時に御仁がかけてくれる言葉どおり。

    

「ずっと同じ風は吹かないよ。」