吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

無明

「煩悩があるのも、かえって人間味があっていいのではないか。煩悩があってもよし、なくてもよし、こういう世界が空という世界ではないか。」

 

前回の記事でも触れたが、久しぶりの父親の毒にさらされてから精神的なエネルギーが低下している。そのせいか、やたら怒りが湧いてくる。昔から膨大な読書で習得した私の心理学的理解からいうと、私が人に向ける怒りは大抵、私自身に対する怒りなのだと思ったりする。相手のいけてなさに、自分のいけてないところを投影しつつ、攻撃するというのが昔からのパタンだ。新年度に向けた行事事等でばたばたして余裕のないところに、父親のことや自分のことすべてがごちゃまぜになった気分だ。そんな気分を整理しようとブログに向かうために、昨日から禅語を探していたが、こんなマイナス気分に合うものはなかなかないところに、ふと出逢ったのが「無明」である。いろいろあるけど、まあいいではないかというところで今日の自分を赦したいと思う。

 

父親の毒牙にさらされたことをきっかけに、30代の頃に受けたカウンセリングの基盤となっている交流分析、その中でも「再決断療法」について再読した。というのは父親とのかかわりの中での自分に湧き出る怒りはどこから来るのかということを思い返したからだ。それを考える時、同時に自分がいつも人に批判されていないかびくびくしている辛さについても考えた。交流分析や再決断療法を読み返すことで、漠然と理解できたのは、幼い頃に父親から批判されたり、批判と暴力がセット化されることで私の中に恐怖が植え付けられた。地雷を踏まないように、怒ってないだろうかと、顔色を伺いながら自分のふるまいを決める一方、父を基準にした地雷を踏む人を許せないと感じ怒りが噴出するのだ。しかしその怒りの本質は、地雷を踏んだその人自身に対するというよりは、自分はその地雷を踏まないようにと自分を抑圧せざるを得なかったことに対する恨みのようで、本当は父に対して「NO」と言えなかったことに対する怒りだったのではないかと思う。自分が父親の基準ではなく、自分の感覚に基づいて行動したり、「NO」と言えたなら、他の人に対する怒りはどうでもよいものになるだろう。

 

「再決断療法」とは、子どものときには、まだ力が弱く生き延びるためにはそうせざるを得なかったために決断した方法を見直し、自分の「今、ここ」の感覚に適合した方法に決断しなおすというものである。とはいえ、私のように長年子どものころの選択で他人を基準に生きてきた者にとっては、「今ここの自分を感じる」自体が至難の業なのである。いつも他者目線の思考が先行するので、自分が今どうしたいのか、何が欲しいのかがわからない。昔は店で食事のメニューを決める時、「何を食べるべきなのか。何が良いのか。」ということで頭が一杯になり、「何が食べたいか」という自分の欲求がわからず選べないことがよくあった。

 

自分がこうすることで、良く思われないだろうとか、非難されるかもしれないからとか、相手が喜ぶだろうからとか、常に自分の行動の基準が他人だった。配慮することと、人の顔色を伺ったり、機嫌を取ろうとすることの違いがわからなかった。御仁から「俺の機嫌なんか取る必要ない」と以前時々言われたのだが、何を指してそのように言うのかわからなかったし、尋ねるのも怖かったので聞かなかった。ある日一般論として「機嫌を取るのと、配慮とは何が違うのでしょうね。」と尋ねたら、「配慮は人の嫌がることをしないこと」と言われた。うーん。半分わかって半分はわからなかったけど、他人の平穏がプラスマイナスゼロだとする場合、嫌がることをしないというのは相手をマイナスにしないことで、機嫌を取ろうとするというのは、自分の身をすり減らしながら相手をプラスにしようとすること、しかし基本はプラスマイナスゼロの自立した平穏な関係で距離をとればよいということだったのではないかというのが現時点での自分なりの理解だ。きっと私は、嫌われるのが怖くて、必死に身をすり減らしながら相手をプラスに向けようとしていたのかもしれない。

 

私の頭の中では、常に自己批判的ジャッジが働いている。心理学系の本には、「ジャッジしないでありのままの自分を受け止めましょう。」とあるが、子どもの頃から身につけた自然な感覚として機能している自己批判ジャッジ自動装置。相当意識しなければ止まらない。何度も何度も「まあいっか。大丈夫よ。やりたいようにやろうよ。」と自分を励まさねばならない。頭で理解することと感情の乖離は、私にとって当たり前だったが、ある時御仁に問うたら「そんな経験ない」と。まあそうだろうな。御仁はその成育歴からも自己肯定感の強さが半端なく、自分でも超ポジオと明言している程だ。そんな人の傍らで、マイナス思考的言動等決してしてはならないと、これまた自分を厳しくチェックして一言一言を選んでいる。言霊という言葉があるように、どんな思考であってもプラスの言葉を用いることでよい方向へ導かれるのも事実だから、極力プラス言葉を用いるようにしているが、今日のようにマイナスエネルギーの自分を否定することはない。

世の中には、超ポジティブな人間がいるのと同じくらいマイナスな人間もいるだろう。ポジオにはマイナスの人間の苦しみはわからないだろうが、私にはわかる。ともすると何が何でもポジオにならねばと短絡的になりがちな私であるが、マイナス人間ならではの人間理解や癒しの役割があると思うので、すべては適材適所ということでよいことにしよう。「I am OK. You are OK.」が大切。←交流分析の本の受売り・・・。

物事の批判をしてすぐに切り捨てるという悪い癖があるが、今日のところはいらいらする身内への感情を自分なりに受け止めて平穏に一日を終える決断をした。

煩悩はあってもなくて、どちらでもいいので・・・。