吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分で自分の気分を良くする

アルコール依存性の家族がいる。

それがきっかけで共依存やACの概念に出会い

その手の書籍は随分と読み漁った。

 

知識は増えたが、正しく行動出来ているかは何とも言えないという自覚がある。

 

意識してやってきたのは、アルコールに関する世話を焼かないことである。

 

具体的には、いつも飲み散らかし、床に散乱した空き缶を、私は決して片付けないことにしてきた。

また凄い勢いで溜まる空き缶が、ゴミ箱からはみ散らかっても、空き缶のゴミ出しを私は決してしないことにしてきた。

ただ、気にはなるので、カレンダーにでっかい字で示したり、本人に「明日缶のゴミ出しお願いできる?」と癇に障らないよう、下から声を掛けたりした。

それで本人が対応することもあれば、対応しないことがある。

対応しないことに私はイラッとするし、次のゴミの日迄に家の中に、アルコールの空き缶が溢れかえっているのを見る度に、嫌な気分になる。

こんなことを、ずっと繰り返してきたが、ふと思いたった。

こんな風に、相手の行動によって自分の気分が左右されること、自分の気分が自分でコントロール出来ていないことこそが、私が抜け出すべき共依存関係なのではないか。

アルコール依存性から学んだ共依存関係の解決すべき課題は、アルコール関連に手出しするかどうかではなく、アルコール関連で自分自身が振り回されないことなのではないか。

 

本人がどうせ片付けないのだから、私が黙って片付ければいいという考え方は、共依存的かと思う。

ただ空き缶が放置されるのは、私にとって不快だから、「明日は缶ゴミの日だからお願いしたい」と伝えることは、私自身の意向として大切なことだ。

 

問題は、意向を伝えたが、本人がやらない場合どうするか。

本日の気付きは、私の意向を知った上で、本人がやらないなら、私がやればよいのではないか。

何故なら、空き缶を放置して私の気分が悪くなるのを回避できる、すなわち私の気分がよくなるから。

それを何十年も、手出し無用と踏ん張って結果、私はずっと嫌な気分であったのが事実。

そんな風に、自分の気分を人に左右されることをやめられることこそが、共依存からの卒業なのではないか。

 

ちなみに、ここのポイントは、「本人が出来ない」のではなく、「本人がしない」ことかと。

お声かけはした、しかし対処しないということなら、私がやります。何故なら、私の気分がよくなるから。

そうだ!

私の気分をよくするのは私が1番選手だ!

 

私の気分は、見方を変えると、私の生き方であり人生である。

心地よく生きたいのに、頑なに空き缶を放置している場合ではない。

とっとと捨てて、自分は自分の人生を気持ちよく生きると決断した。

 

今宵は2袋分やっつけた!

まさに、あなたがしてくれなくても…。

 

私の気分を良くするのは私

自分の気分を人のせいにするのは今日から禁止

人に任せるなんて、私の操縦桿を渡すってこと。

そんなの嫌や!やめておくれな!

自分の中の子どもをしっかり愛を注いで,私が進むべき道をひたすらに往く。