吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

仏法を学ぶ

気が付けば、前回の記事から3か月経過している。なぜそんなにも期間があいたのかを自分なりに振り返ってみる。

 

1月のある日、私はこれまでいろいろな生きづらさがあったけれども、もう自分は大丈夫だという、ふとした感覚を覚えたことが影響しているのかもしれない。

私はAC的共依存的夫婦関係を20年以上続けてきた中で、夫を批判する気持ちがありつつも、離れるという決断をしてこなかった。夫はアルコール依存だが、私はそのアルコール依存をいつも批判していたが、夫を批判し攻撃することで私自身の正当性を確認し、安心感を得るというメリットがあったのだと気づいた。だからわたしにとって夫はダメんずである必要があった。しかし、1月のある日夫の依存症が、わたしにとってこれ以上は無理という段階に来た。そのことで、私はふと自分を改めて俯瞰的にみることができたのかもしれない。

改めて、これまで夫をちくちくと攻撃する単なるいじめのようなレベルから脱して、これまでの2人の関係や自分自身を俯瞰的に眺めてみたとき、もう手放そうと思った。自分の人生も後半となった今、あと何年生きられるかわからない、まだまだやりとおしたい仕事がある。そう思うと、『自分は一人で大丈夫だ』という気持ちがわいた。大丈夫というのは具体的に言うと、この夫を道具のようにして自分を保ってきたが、それはもはや必要ない。自分の足で立つことができると思えた。もちろん、弱音を吐いたり、不安になることはあるが、そんな自分を他人に何とかしてもらわなくても、自分自身で自分の世話ができると思えた。そして私は夫に離婚届を渡した。

 

そんな中、NHKラジオに『宗教の時間』という番組があり、『慈雲尊者の仏法 全6回』に出会った。この内容に惹かれ、らじるらじるの聞き逃しサイトで繰り返し聞いている。聞き逃しサイトには期限があり、現在は最終回の第6回が5月9日まで聴ける。

私はNHKテキストやこのシリーズのもとになっている慈雲尊者の十善法語の書籍も買ってしまった(まだ十分読めてはいない・・・)。

 

私がこれらの仏法に惹かれた根本的な理由は、ACであろうとなかろうと人生を生きるのは、誰しも大変なことだという点にある。そうだとすると、自分がACであることは一旦脇に置いて、純粋に人としてこの世をどのように生ききるかという点をシンプルに考える機会となった。

 

仏法は、四苦八苦である人生を生きるための、人としての在り方を説いたものである。様々なことに対する執着を捨て、本来の自分と向き合い生きるということなのだが、そこに到達する道のりは誰しも簡単ではない。その簡単ではない程度というのが、人によって少しずつ異なっていて、その異なりように影響するひとつが親との関係だといえるだろう。ACだから生きるのが困難というのではなく、誰しも生きるのは困難を伴うものだ。ただACならではの生きにくさの特徴というがあるのは事実であると理解できる。

 

つまり生きにくさの程度の差こそあれ、本来の自分に向き合い生きる覚悟を持って生きれば、どんな環境に生まれようとも、本来の自分に到達できるのだと思える。そう考えると、あの人も私も人として向き合う課題は同じなのだ理解し、恵まれた環境で育った人を羨むでもなく、比較して落ち込む必要もないという気がした。逆に、どんなに恵まれた環境に生まれたとしても、自分と向き合う努力を怠るならば、人を羨んだり、批判したりすることに時間を費やし人生を終えることになるのだ。

 

AC的辛さを抱えて生きてきたこれまでのプロセスの中では、本当に苦しい時期があった。けれど、ある意味私の人生にとって貴重な経験であったともいえる。それは、経験したものしかわからない人の苦しみがわかるからだ。それは自分の強みともいえる。

 

それは昨年9月に久しぶりの実父からのDV事件について、御仁と話す中でより明白に思えたことだ。御仁の家庭環境からはACの生きづらさ等、想像もできないのだろうなと感じた。すると御仁は私にとって大切な人ではあるが、ACについてわかってもらおう等とは微塵も思わない自分がいた。それは経験しない人にはわかりようもないことだからだ。このことには、良い悪いはない。私は御仁のことを敬愛するあまり、盲目的な尊敬により、御仁は私より優れていると思い込んでいた。しかしACについて、御仁にはわかりえないと感じた瞬間に、御仁にはできなくても私にできることがあることに気づいた。もちろん良い悪いや優劣の問題ではないものの、このことに気づいたときに、自分は自分にしかできないことがある。自分は自分であっていいのであり、自分であることこそが大切だと思えた。

 

ここまでたどり着く道のりは険しく、時間も随分かかった。自分に残された命の時間を思えば、これまでの半分もないだろう。けれど辿り着けた。辿り着けたといいながらも、不安定になる日もあるだろう。けれど不安定になっても人に何とかしてもらわなければならない自分ではなく、自分の世話ができる自分でいられそうだ。

だから、あと残りの人生は、本来の自分にとことん向き合う時間にするのだ。