吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

人を自分より上に置かない

17年来の友人と1年ぶりに仕事について語りあった。

 

この友人はとても頭のよくて、そのアイデアにいつも感心させられるが、しばしば言動がきつく、こちらが批判されているような不快感を感じることがある。

 

実際、過去に一緒に働いた職場の人間関係で、しばしば摩擦を起こすことがあった。

 

このような摩擦の要因を私は以下のように分析していた。

 

友人は、頭が良いために多くの人が予測できないような問題点や解決策が見えて、そのことを人々に提案する。

 

友人は頭がよいために人々が予測できないことが理解できないので、いらいらしたり、やや上から目線となりがちであり、人々が不快を感じる。

 

言っていることは正しいが、人々は不快な感情を抱えているために、解決策への取り組みに抵抗する。

 

私自身はというと。

自分の心の不快は我慢して、友人の提案が立派だと感心して、必死に実現のために努力していた。

それに人々が理解できないのは、あなたの頭が良すぎるからだよと言って、自分は友人のよき理解者としてふるまっていた。

 

私は何度もこの友人に助けてもらった。

私にとってこの友人は、今でも大切な存在である。

おそらく、この友人に自分と同じような心の傷を感じるているのだろうと思う。

 

この人は、一見、自信たっぷりに上から目線であるけれども、内面は繊細で、人々との摩擦に対して傷ついていること、不器用で人々に誤解されるが、根は優しいということを知っているからだ。

 

しかし、今回久しぶりに友人と会って、話している間は、相変わらずの友人の発想に感心し、きつい言葉に傷ついていた。

帰宅後も、友人の言うようなことが出来ていない自分をだめだなと批判したり、友人の言うように頑張らなければと叱咤激励していた。

 

しかしその後、ふと気づいた。

 

何でそんなに傷ついているの私?

何でそんなに自分を責めているの?

友人の言うように出来ていない私じゃだめなの?

 

いやそんなことはない。

この友人を自分より上に置いて、自分を蔑ろにするのは間違っている。

 

この友人が頭がよいことが事実であったとしても、自分を下に見る必要はない。

この友人のややきつい態度や言動に対して、それは私自身が未熟だからだと自分を批判する必要はない。

私は自分の考えを否定して、この友人の意見を採用する必要はない。

 

このことに気づくために、久しぶりにこの友人に会うことになったかもとすら思う。

17年もかかったが、それに気づけるほどに自分は回復してきたのだ。

 

相変わらず頭脳明晰で、ちょっときつい友人だが、それはそれでいいと思う。

これからも大切にしたい存在であり、友人の幸せを心から祈る。

 

不器用ながらも自分なりに進んでいる自分、それはそれでいいと思う。

これからも自分を大切にして、自分の幸せを心から祈る。

 

私たちは、互いの存在を大切にしながら、それぞれの道を往けばいい。

 

友人に感謝。