吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

反応しない練習

『反応しない練習』草薙 龍瞬著を読んでいる。

 

AC的に自分を守る力がやや低下している時には、人の言動が直球で心に刺さってしまい、傷ついたり、反射的に攻撃してしまったりということがある。

そんなわたしは、動じることなく、『当意即妙』で冷静に対応できる自分になることをテーマとしているので、この本はかなり勉強になる。

 

まあしかし、いくら思っていても一足飛びに実現するものではない。

「あー、また今日もやってしまった。」という日々。

それでも、そんな自分を責めることはなく「んー、また頑張ろ。次はもっとうまくやれるよ。」と自分をやさしく励ましたりする。

 

私の内省ポイントは、「良い悪いを判断しない」「ジャッジしない」であるが、気づいたらよく人を良い悪いで判断したり、ジャッジしたりしていることに驚く。それでも俯瞰して自分を見ることで、そういう自分に気づけていることは成長だと自分を慰める。

 

そんな俯瞰的な視線で改めて原家族との対話を眺めていたある日、気づいた。

私は父親との会話の中で癇に障ることがよくあるのだが、その原因は「父が常に人をジャッジして良い悪いの判断を下しているからだ。」と理解した。

父は自分のことを棚に上げ、上から目線で人をジャッジした挙句に、相手に指摘し責め立てる。それで相手が父の言い分を認めて折れなければ、激しく攻撃し、怒鳴り散らす。役所等でも、担当の人を論破し怒鳴り上げ、そのことを半分武勇伝のように話す。このような話を聞くのはAC等関係なく、人として本当に不快で聞くに堪えない。

しかしこれをさらにAC等の心理学的視点から眺めてみると、父の良い悪いの判断や常に人をジャッジする視点というのは、私の中に投影され染み付いていることに気づいた。私は父のジャッジ的な言動にいらいらさせられながらも、自分がジャッジ的視点を取り込み行動化していた。それがさらに拡大して、父や両親からのジャッジが、世間様からのジャッジになり、自分を苦しめていたのだと理解できた。

 

『このジャッジは私のものではない。要らない。手放します。』

 

ジャッジする父親を前にしてもいらついたり反応したりせず俯瞰でみられるようになった時、自分がジャッジを手放せたとわかるのかもしれないと自分を追い込んでみようとすることがある。しかしこれは少々根性論が過ぎる。

といのは、御仁の語りをきいていると「人が苦しむのはみたくないでしょ。」「こういうのは嫌だ。」等と言うことがある。弱音を吐いてはいけないとがんじがらめになっている自分からすると、「えっ、見たくないって言っていいんだ。」「嫌だって言っていいんだ。」と驚いてしまう。

自分は、「見たくないとか、嫌だとかというのは、負けだ。嫌なことでも我慢して向き合える人にならねばならない。」と自分を追い込む癖があるから。本当はそんな頑張らなくても、嫌だっていう自分の気持ちをありのままに受け止めて、「嫌だ。」と言っていいのだ。それが本当の強さかもと思ったりする。

だったら、父のジャッジや人を責め立てた武勇伝等の不快な言動に相対するチャレンジ等必要なく、「聴きたくない」「聴かない」と不快を遠ざけることを自分で決断すればいいのかも。それでも目の前で起こってしまった時には、「反応しないでかわしたり、さらっと流す」ことができればいいかもしれない。

 

今日この話題を書こうと思ったきっかけは、昨日の姉の言動に反応してしまった反省からなのである。

昨日些細な事で、姉から責めの言葉が飛んできた。それにまんまと反応してしまった自分がいた。案の定、2人の間は険悪な空気が流れ、「また反応してしまった・・・」と反省したのだ。そこで前述のような父のジャッジについての気づきと併せて、姉のジャッジを考えてみた。もしかして今回私に向けられた姉のジャッジや人を責める言動も、父からのそれが投影されているのかもしれない。私たち娘は幼少のころからさんざん父親のジャッジと攻撃にさらされてきたのだから。それでも私はそのことに気づいて手放そうとしているが、姉は気づいたり手放したいと思うに至っていないということなのかもしれない。もちろん姉がそれを自分のものとしていたいと思うなら、それはそれでありだ。けれども、自分は父の負も姉の負も受け取りたくないので、受け取らないという決断をするというだけの違いなのだろう。

しかし昨日は姉の攻撃に反応したことで、まんまと不快を受け取ってしまった。

そこでもとい、自分に次のように言ってあげるのだ。

「またやっちゃった。まあいっか。人間だもの。でも次回は受け取らないし、もっとうまく流すよ。それに、自分が不快だなと思う人と、無理に一緒にいなければならないことはない、姉といえどもそれは同じだから、距離を置いて逢わないようにする。私は私を守り快適な時間や幸せを自分のために作っていいんだよ。頑張らなくていいんだよと言ってあげる。」

 

放下著