吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

他者批判と自己批判

家籠りの時間が長いせいなのか、時々いらいらすることがある。

兄弟姉妹の毒について以前の記事で触れたことがあるのだが、最近の私のいらつきのひとつは姉に向かうことがある。

私が姉を見ていていらついたりする時というのは、常にその言動を監視してジャッジしており、そのジャッジの結果、不合格たることがらについて批判的な気持ちになりいらいらするというパターンであることに気づく。

 

一方、このような監視とジャッジによる他者批判は、いつもの自分へのジャッジとによる自己批判のパターンと同じだよねということにも気づかされる。

 

わたしが自己批判を手放せたと思えるときが来るとすれば、他者の言動の中に不快なものがあったとしても、「ふーん。この人はこういう風に考える人なのね。私は選ばないけど、まあいいんじゃない?」というように、ゆるーくその人のありのままを受け入れられる時なのだろうと思ったりする。

 

それにしても今はその域に達してないのは事実なので、いましばらく姉に近づかないことにしている。

 

それでも以前の私なら、「近づかない=逃げている」とする自己批判や罪悪感につなげて無理やり立ち向かおうと自分を追い詰めることがあったことからすると、近づかないことや、近づかない自分をだめな自分ととらえず、むしろ「近づかない=対処ができている」ととらえられる域に達したように思うので、「逃げる自分も、まあいいじゃないか~」と思ったりする。

 

以前の私は休みの日でも、何かしら仕事に追われていたり、休みになったらしようと思っていた仕事があってもやる気にならず手を付けられなかった時には、仕事に向き合えない自分に対する批判や罪悪感に苛まれていた。

けれど、今日もだらだらとした休日を過ごしつつ、こんなだらだらした自分を誰が責めるのかなと思うと、やっぱり自分以外の誰も責める人はいないよな~と思ったりする。

 

自分を責めることを手放し、もっともっと自分に優しくなれたら、きっと他者にも優しくなれて、責めたり、いらいらすることも減るのだろう。

 

御仁のことでいうと、わたしが敬愛するあまりに、少々偶像化しているところがある。しかし数日前の御仁の言動が、私の偶像化した姿からは少々離れたものであったのだが、そこは批判的な気持ちにはならず、「そういうところもあるよね、だって人間だもの~」と思えた。同時に、御仁を偶像化していた自分は自分自身にもあるべき姿で居なければならないという脅迫めいた自己批判を持っていたこととつながった。だからこそ、御仁を偶像化する必要なんかなく、ありのままの人間として受け止めようという気持ちは、自分自身の肩の力を抜くことにも作用したように感じた。

さらに昨晩はSNSのやり取りの中で、御仁が私に少々呆れるような場面があったので、一瞬ぐさっときたのだが、しばらく後には「まあ~、わからないこと、伝わらないこともあるよね~。他人だし仕方ないわ。」と軽く流せる気分であり、ぐさっときたその傷を労わってやれた自分がいた。御仁に言われる言葉に一喜一憂して、怯えたり深く落ち込んだりしていた頃を思うと、随分自分に優しくなったと思う。

 

変化は少しずつ少しずつ、でも確実に起きているから、まあいいじゃないか・・・。