吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

是亦夢非亦夢(その2)

是亦夢非亦夢とは、是とか非とかの相対的な知識や判断の執着から脱却した執着のない、さとりも学識も地位も忘れ去った境地とのことである。

 

今日は久しぶりに父親の毒にさらされ疲れ果てた一日であった。両親の介護をめぐり、家族で集合して話し合う場面で、父親のあまりに自己中心的な発言にうんざりした。しかし、疲れ果てた原因は父の言動によるのではなく、そんな人とは心理的距離をとろうと思っていたのに、その言動についつい反応してしまい、怒りを露わにしてしまった自分自身に嫌気がさしたのだ。しかもこういう人にはなりたくないものだと思いつつも、どこか私自身の思考や行動パターンは、父親のそれと似ているところがあるのだ。だからきっと、父親の言動に嫌気がさすのは、自己の投影があり、ついつい反応していまうのだろうと分析している。

 

ACには、親子関係が深く関連しており、その関係性を指して毒親と称したりする。私にとっての毒親は、父だったのか母だったのか、どちらだったのだろうかと考えないではないが、今日この禅語を選んだのは、もはやどちらでもいいという境地となり、改めて親の影響等というものを流し去りたい気分だからだ。そこで自分の親との関係を備忘録的に書き留めておこうと思う。

 

父は気に入らないことがあると母に対して怒鳴り散らしたり物を投げたりするDV的な人間だった。母は抵抗する術もなく、ひたすら耐えていた。子どもに対しても切れることがあったが、そんな父と正面切ってぶつかっていくのは姉妹の中でも私ぐらいだった。というのは、母親に対する理不尽なDV男が許せないと思ったし、黙って耐える母のことも男に虐げられる女という目で嫌悪した。だから私は、父がいくら怒鳴っても暴力を振るわれても、自分が納得いかない限りは屈しないという態度で向かっていったのだ。これで命を落とすことがあっても仕方ないと思ったし、こういう風にして家庭内の殺人事件は起こるのだなと思ったりもした。そんな私に、母は「謝りなさい。」と叫び、無理やり頭を下げさせようとしたので、なぜ私の味方をしてくれないのか、いつも父親側に立つのかと悲しく思っていた。また父は気に入らないとすぐに「縁を切る。もはや娘ではない。」と切り捨てようとした。父に対する怒りがありつつも、縁を切る等と言われるたびに自分が深く悲しみ傷ついていった。

 

ACという概念を知る前は、自分の生きづらさは父親のDV的な出来事からくるのではないかと考えていた。ずっと対人緊張が強く30代の時初めてカウンセリングを受けた時も最初は父親との話ばかりしていた。そんなある日カウンセラーから、母親に対する気持ちを問いかけられた時に、「えっ?」と思った。父親との確執のトラウマが大きすぎて、母親に対する気持ちというものを、改めて考えたことがなかったのだ。そこで初めて母親に対する自分の気持ちを自分に問うた時、父親との大きなトラウマの影に隠れていた、母親に対する怒りや悲しみが湧き出てきたのである。それは、横暴な父親に負けたくないと闘っている私を、なぜ母は助けてくれなかったのか、なぜいつも父親側にいて、私の味方になってくれなかったのか、父親に縁を切られそうになった時、それでも母は私を愛していると、私の大切な娘だよと言ってくれなかったのか・・・という。カウンセリングで問われ、はっとしつつ、帰宅してしばらくして、このような母に対する自分の怒りや悲しみに初めて気づいた時、私は一人で声を出して泣いていた。

 

それから随分後に、改めてACを扱うカウンセラーと出会い、両親の親子関係を含む家族全体の関係を把握する作業をした。父親自身もACであり、そんな父親の妻として生き延びるために、母親は子どもをコントロールする必要があったのだと理解した。実際、母親は、父の仕事が多忙になるときには、父親の機嫌を損ねないよう、ちゃんとするのよ等と子どもたちに言い聞かせていた。常に「お父さんが●●だから、●●してちょうだい。」というのように、自分たちの行動は父親を中心に置かなければならなかったのだ。そう理解すると、両親のうちどちらが毒親かということは、どちらもであるし、もはやどちらにしても機能不全家族だったのだ。

 

それにしても、私は早々に結婚して姓を変え、毒親から逃れたはずだった。しかし介護問題という段階になって、父親は病気を盾に再び横暴さを振りかざしているように見える。見えるというのは、他の姉妹は、何とかしてあげなきゃという気持ちになっているが、私自身は機能不全家族について理解しているので、父親が病気を抱えた弱者のようにふるまっても、家族の同情を利用してコントロールしようとしているように客観的に見えてしまうのだ。ただし、悲しいかな、自分が頭で理解しても、自分を他の姉妹に比べてしまうと、客観的でクールな自分が、冷たい人間のように思えて、やはり自己批判が起こってしまう。だからしんどいのだろうと思う。

 

私の理想は、相変わらずの父の横暴さを、本当に仕方のない人だなとクールに受け止めつつ、やれることはやる、やれないことややりたくないことははっきりとNoと言い、しかもNoという自分を自己批判をしないでいられることである。今日は自己批判が起こってしまったので疲れ果てたが、それはそれで「また批判しちゃったね~」と受け止め、そんな自分を赦し流し去る。そして明日はまた違う自分になれるだろう。

是とか非とか、良いとか悪いとか、相対的な判断の執着から脱却する。まさに是亦夢非亦夢である。