吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分で自分の傷を癒す

『5つの傷』リズ・ブルボー著 株)ハート出版

 

自分の感情を吐き出すことの大切さについて書いておられる方のブログで紹介されていた本を最近読んでいる。

ACや毒親の本、果ては宗教の本も最終的に行き着くところは同じと理解できるが、行き着くまでのプロセスに対する見方や対処方法について、それぞれに特徴があり新たな発見がある。

吐き出しブログの著者は、むかつく出来事が自分に起こるのは、自分自身がそのむかつく出来事を『むかつく~』と吐き出す必要があることを教えるために起きているのだと解説している。この方が言われる根拠として示しているのが、この『5つの傷』という本ということであった。

 

そっか、自分が吐き出すために事象が起きているとするならば、罪悪感を持たずに吐き出せばいいのかと思ったりした。しかし自分の中にいろいろと禁止事項が多い場合は、頭で理解しても心からそう思える迄に行き着くのはなかなか難しい場合もある。そこで根拠となる本を読んで、もう少し深く理解しようと思ったのである。書籍の中では、人々の行動特性のもとになる心の傷は概ね5つに分類できるということであった。5つ全部を持っている人もいるけれども、2つ3つとても特徴的なものがあるというのだ。

 

そんな折、仕事において私の対応の不十分さを指摘され、ひどくイラつく感情にさいなまれる出来事が起きた。指摘された内容は間違ってはなく、ほぼ正論であるのに、なぜこんなにも自分に負の感情が掻き立てられるか不思議なくらいイラついたのだ。これはいかんと思いながら、とりあえずブログの著者がおすすめしているように、紙上にイラつく気持ちを書きなぐり、なんとか気持ちをおさめようとして1日を爆発させずにやり過ごした。しかし2日後に当該者からかかってきた電話で、ついつい感情が暴走してしまい、相手に対して強い口調で対応してしまった。その後、『あー、やってしまった』と自責の念に駆られつつ、時間をおいてから改めて『5つの傷』の観点から冷静に見てみようと思った。

 

今の彼女は、子どもの頃の私で、今の私は、当時の父親だ。

 

いろいろ考えていると、ふと数日後にこのことに気づいた。実父は正論を振りかざしながら、いきなり切れて怒鳴り散らしたり、暴力をふるったりすることがあった。そんな父に母は抵抗しなかったし、基本的に他の姉妹も抵抗はしなかった。しかし、私はそんな理不尽な父親の態度に負けたくない気持ちが強く、真っ向勝負していたのだ。理不尽に対抗するために、何とか論理で勝利しようと正論を並べ立てるという戦法だった。たいていこの勝負は、親という権威の前では無力であり、ブチ切れられて負けに終わった。

 

私はこれまでも、やるべきことをやらない人がいると、強い怒りにさいなまれるということがあった。例えば、挨拶をしない等、礼儀作法が不十分な相手にとても怒りをおぼえるのだ。このことについても、なぜそこまで怒りにさいなまれなければならないのか自分が苦しいだけなんだから、ほっとけばいいのにと思いながら、いつもいらいらしていた。このようなことと、今回のことの根っこは同じだと気づいた。

 

「私は、挨拶をしなかっただけで、父親からひどい暴力を受け、とても悲しくつらい思いをしたのに、他人が挨拶をしないで済まされるなんて許せない。」という気持ち。

「私は、正論を吐いてばかりいると、父親から怒鳴られて、いつも悲しい思いをしたのに、他人が私に向かって正論を吐いてくるなんて許せない。」という気持ち。

 

けれど、この事象を俯瞰で見ると、挨拶をしないこと、正論を吐いたことに対して、怒りも持ったのは、そもそも父親だったのであり、私の感情ではない。

正論を吐いたときに怒りで攻撃されて悲しかったのは、私の感情だ。仕事の相手に攻撃した私には、父親の怒りの感情が投影されていた。私の怒りを向けられてために、辛い気持ちになっただろう仕事の相手は、昔の幼い私自身だ。つまり私に父親が乗り移って、幼い私を攻撃しているという構図が見えてきた。

 

昔からAC的な対人恐怖に苦しんできた中で、いつも自分を責めている感覚があった。しかし自分を攻撃している声は、どうも自分自身ではなさそうだということには、ずいぶん以前に気づきつつ、おそらくそれは親の声だということを漠然と理解してはいた。しかし今回の経験で、私を攻撃していたのは親の声に違いないが、親の感情が乗り移った私自身であると理解できたのだ。

 

『親が、私を攻撃している声』

『私が、親の感情を重ねて私を攻撃している声』

 

この新たな認識は、言葉上ではとても微妙な違いに見えるが、とても大きなことのように思う。大きな違いは、主語が親から、私に変わったことだ。主語が私になったことで、私がコントロールできるものになったのだ。

この怒りは親の感情であり、私の感情ではないから、私はこの怒りの感情を手放すという決断ができる。

 

父親は挨拶をしないことに、暴力を振るったが、私は怒らない。

父親は正論を吐く相手に、怒鳴り散らしたが、私は怒らない。

 

このような一般的なことから、さらに私自身の体験に卸すことにより、挨拶をしなかった私、正論を吐いた私を、私が赦すことに行き着く。

 

父親は挨拶をしない私に、暴力を振るったが、私は暴力を振るわれて悲しんでいる幼い私を優しく慰めてあげる。

父親は正論を吐く私に、怒鳴り散らしたが、私は怒鳴られて怯えて傷ついている幼い私を優しく抱きしめてあげる。

 

今回の経験で改めて思うのは、心の傷というのは、深いところにささっている棘のように、見えなくて取り去りきるのが難しいものだなという気がした。

頭で理解したつもりで、生きづらさがずいぶん楽なってきて、自分は大丈夫な気になっていたが、全部の棘を抜くには、まだまだ道のりが長いように思う。

ただ一足飛びにはいかないけれど、日常にある自分のふとした怒りや苦しさを放置しないで、俯瞰的に理解しようとすることが、とてもよい処方箋になるのだということが理解できた。

もやもやするから、ドカ食いしてふて寝するというのも処方箋のひとつであるが、これは表面的な湿布薬程度にしか効かない。

深くに刺さった棘を見つけるための俯瞰的な時間こそが、大切な処方箋になるのだ。

 

自分の傷は自分で癒すことができる