吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

禍福は糾える縄の如し

前回の記事を書いた際は、御仁の体調不良や知人が倒れたことに慌てた自分が、いかに一期一会の覚悟が薄れていたかを思い知らされた。そのためとにかく逢える時に逢おう、逢えた時間を大切にしようと思ったところに、コロナ騒ぎが浮上した。持病を持つ御仁にとってコロナ感染は命取りであり、世間的に、ここ1-2週間くらいが感染制御の山場であるといわれているため、御仁はその間家に籠ることを周囲に宣言した。私に直接何かを言うことはないが、この宣言は私とも逢わないことも含んでいると察した。あえての確認は悲しくなるのでしないし、万が一でも自分が感染源になることは絶対あってはならないと思うので、私自身も逢わない方がよいと頭では理解する。感情的には逢えないことは悲しいが、御仁の命を守ることになると思えば、逢えないことに耐える覚悟も沸いてくるから不思議だ。

 

「禍福は糾える縄の如し」とは「幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだ」という意味のことわざ。起こる事象には「今は」という思考の冠をつけて向かい合うとよいと御仁の言葉があった。「逢いたいけど、今は逢わない。」「今は逢えないけど、生きていればきっとまた逢える。」そう考えて、今は耐える。

 

AC的私は、人の感情をコントロールすることで自分を安心させてきた側面がある。これまでの付き合ってきた人も、自分のわがままを受け入れ振り回すだけ振り回し翻弄される相手に愛情を感じて安心するところがあった。私自身が私自身を世話できないので、そんな自分でもいいんだよと相手に示してもらわなければ不安でしょうがなかったのだ。そんなAC的自分も、少しずつ回復しているという自覚はありつつも、完全というわけにはいかず時折同じ失敗を繰り返したり、不安に陥ったりする。

しかし御仁という人は、絶対に人に振り回されることはない。世の中に「絶対」ということはほぼないので、この言葉は人が死ぬことくらいにしか用いないという私のポリシーがあるものの、御仁が人に振り回されないことはほぼ絶対という気がしている。だから、御仁が私に振り回されることはないとわかっているので、私が振り回そうとする気もほぼない。ほぼというのは、相手には要求しないものの、自分の内側ではついつい時々こうして欲しいのにという期待を持ってしまい、かなわないことに打ちひしがれるという失敗を繰り返しているためだ。振り回しACとしては、振り回されない相手に不満を持つこともありつつ、決して振り回されず動じない人だからこその安心感を持つという新たな体験をしている。相手が動じないことで、毎回自分の世話は自分でしなければと、相手の問題ではなく自分の問題であることに立ち戻らせてくれる。そういう意味で、わたしにとって御仁との関係は究極の演習なのだ。長いAC人生の中で回復途上にきたからこそ、御仁に逢えたのだと思う。

 

人生での出逢いは、出逢うべき人に出逢うのだと感じるられる不思議。AC的には思いどおりにならないとすぐにシャッターを下ろす悪い癖があり、御仁に対しても癇癪を起しそうになることが何度かあった(あくまで自分の中だけのことだが・・・)。しかし実のところは、心が震えるくらいこの出逢いに感謝していて、命ある限り大切にしようと密かに決めている。

 

以前は御仁を敬愛するあまり、御仁と自分を比べて卑屈になることもあった。しかしある人が、自分が尊敬する人というのは、その人の持つ部分が自分の中にもあるからこそ惹かれるのだと話してくれた。そのときは御仁のことをあまりにも高く見ていたので、まさか私の中にそんな高みがあるだろうかと疑念を抱いたが、徐々にACの回復に向かう中で自分に対する批判が減ってきたと感じる時、私が目指す人間像が御仁の中にあるということに気づかされた。それは、わたしが御仁を敬愛しているから御仁のようになりたいのではなく、私がなりたい人間像が御仁の中にあるから敬愛の念を抱くのだということ。そういう意味で私の中にも、少なからずその人間像はあるのだ。

 

御仁の生存をSNSであくせくと確認したり、連絡がないことにいちいち落ち込んでみたりする一方、御仁との不思議な出逢いに個人という小さな枠組みを超えた、大きな存在とのつながりを感じる時、小さな不安はすっかり手放して心のつながりを味わうことにした。