吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

一期一会

一期一会は、良く知られた禅語である。私にとっては、特に大切な人が病気を抱えているため、逢っている間はこれが最期かもしれないと常に覚悟して大切に過ごそうと、肝に銘じておきたい心持のひとつのはずだった。しかし実際は、元気そうにしている姿を何度か見ていると、この覚悟が薄れていた自分に気づかされた2つの出来事が重なった。

先日、敬愛する御仁にSNSで連絡を取ったら体調が悪いことを知らされた。御仁は孤高の人なので、私がうっかり近づきすぎると距離を取れと強く窘められた経験があるため、体調についても深くは尋ねずそっと見守ることにしている。FBに投稿はしているから、瀕死ではないのかも、でも他の人に体調の悪さを悟られないように無理しているのかも等と想像を膨らませながら、FBのオンライン記録を見てひそかに生存確認をしている。

人の死は誰がどのように知人に知らせてくれるのだろうかといつも疑問に思う。それは自分の死は大切な人に伝わるだろうかも心配だし、死ぬ前に逢いたい人にどうやって逢えるだろうかという心配もある。逆に私は御仁の最期に一目逢えるだろうかという心配もある。もちろん、御仁が最期は誰に看取られたいか等、尋ねることはできないし、家族でもない自分がその中に入ってないことはほぼ確実なので、尋ねて明らかにすることで自分が凹むのが容易に想像できるからだ。

今週はそんなことを考えていたところ、今朝は大切にしている急須が割れた。この急須にまつわる高齢の友人がいる。夏頃に骨折をして大変だったと聞いていたから逢いに行こうと思っていたのだが実現しておらず、急須が割れたことで何だかいやな予感がしたのだ。それで慌てて電話してみたらつながらない。普段見ていないInstaを開けると11月で記録が止まっている。もしやと思い、さらに共通の友人に電話すると、がんの脳転移で入院しており、会話ができなくなっているという。それでも、私としては最悪なことも想像したので、生きておられたということに安堵した。

御仁やこの友人の出来事が重なり、いかに自分が一期一会の覚悟から遠ざかっていたかを思い知らされた。またいつかね等という悠長なことではなく、お互いに生きている今この瞬間だけが事実であり、誰にも明日や数秒先があるという保証はない。改めて毎日を覚悟して生きようと思う。御仁にも、友人にも何としても逢おう。