吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

坐禅など

縁あって秋に入り月に1回、お寺の坐禅会に参加している。坐禅と瞑想は異なるという話を伺い、目をつむるかどうかの違いはわかるが、本質的な違いは体験を重ねるまでよく理解できなかった。なかなか言葉にするのは難しいが、ここ最近のいろいろな体験も交えつつ、少しわかってきた感じがある。一言でいうと、目を閉じる瞑想は、完全に自分の中に入っているが、目を閉じない坐禅は、俯瞰的に自分を外から眺めているという感じだろうか。

坐禅は、無になろうとしたり、何か悟りを得ようとするものではないという。ただ座ることを目的とする只管打坐。そこに居る相手、自分が向き合う相手は、自分なのだ。坐禅では、「流す」「手放す」ことであり、流そうとしたり、手放そうとせずとも、そのうち自然にそういうことが起こるのだと。ある時には、何かが「ぼとっ」と落ちるのがわかることがあるという。

前回のブログの最後には、御仁がよくありますようにと願いつつも、逢いたいとか切ないとかという自分の欲が手放せない自分を吐露しているが、その後数日かけて、「このまま逢えないことがあっても、それでも御仁がよくあるならば、まあいいか。」という気持ちが出てくることがあり、我ながら驚く。出てくることがあるという表現はつまり、いつも確固たる気持ちでそうなのではなく、揺れることはあるということ・・・。それでもACな私としてはこれまでにない画期的な感情だ。

相手にもよるが、私は断られると勝手に傷つくので、自分から人を誘うことが少なかった。当初、御仁に対してもそうであったが、あることをきっかけに、逢いたいのに相手がいうのを待ってヤキモキする時間がもったいないので、自分から声をかけることにした。あることというのは、御仁のふるまいで私がとても憤慨することがあったのだが、それを言えずにいたことを、思い切って伝えたことである。その時はお酒の勢いを借りて夜中にメールで「今度物申すことがあります。」と送ったために、驚いた御仁はすぐに「私は何をしでかしたのだろうか」と電話をしてきた。さらには、夜中にこのようなメールを送るのは、配慮がなさすぎるとひどく怒られたので、怒られた悲しさや私の憤慨の悲しさもあいまって私は伝えようとしたことをすぐには言えないで、口ごもってしまった。けれど、ここまできて言わないというのはあり得ないという状況にあったので、思い切って御仁のふるまいに対して私が憤慨したことを素直に伝えた。すると、そのことに対して言葉が足りなかったと添えながら、御仁の考えや気持ちを丁寧に話してくれて、私はとても心が救われた。ACがゆえに自分が嫌なことでも我慢してしまい、怖くて言えないという性質があるが、この出来事により御仁との距離がとても近づいたという体験があり、私の人生にとっても大きな出来事であった。それ以来、逢いたいのに我慢して声を掛けられるのを待つということをやめようと思い、自分から言うようになっていた。

それはそれでありなのだし、自分から言わねばならないというものでもないことはわかる。逢いたいという自分の願いがかなわなくとも、その人が自分の大切な時間を過ごせるならば、それを嬉しいと思える自分の成長がさらに嬉しい。