吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

明珠在掌

明珠在掌とは、「めいじゅたなごごろにあり」と読む禅語。「大切なものは自分の中にある。」ということ。

 

自分に自信がなく、人を自分より素晴らしいものと盲目の尊敬に陥りやすいACな私。自信のある人、強い人に無条件に惹かれてしまう。無意識的に、そういう人に守られたいという想いがあるのかもしれない。

私の敬愛する御仁は、まさに常に自分の信念をよりどころにやるべき仕事を突き進んでいる人。私はそういう御仁を尊敬するがゆえに、その次元にいない自分のことを恥ずかしく思う気持ちがある。だからこそ、その次元に自分を高めようと努力する。いや正しくは、努力しようと努力しているというところ・・・。

愛する人に近づきたいがために、自分を成長させようとする努力は、価値のあることだと思う一方、「今の自分ではだめだ。」という自分を責める負のスパイラルに落ち込みやすいACの私としては辛いことも多い。自分を高めようとすることと、自己否定が入り混じるのだ。これは紙一重な微妙な考え方の違いなんだろうと思う。つまり、成長しようとするのはよいとして、自分をマイナスと評価してそこから成長しようとするのか、あるいは自分は自分らしさをプラスの評価とした上で、そこからさらにプラスを目指そうとするのかということかなと。

 

今日は仕事が休みの平日なので、家族が出払った誰もいない自宅で、自分の創作活動をしようと数日前から思っていた。しかし自分の創作活動に取り組むことは、自分と向き合うこととほぼイコールなので、わたしにとってはハードルが高いことがよくある。今朝のわたしがエネルギー不足なのには、昨日の御仁とのやりとりが少々影響している。

昨日、御仁にところに出向く予定であったが、仕事が遅くなりそうなので無理かもという連絡が入った。御仁は遅くなってもよかったらと申し出てくれた。せっかくの予定が流れるのは、私にとってかなり切ないことではあるので、遅くなっても御仁と時間を共に過ごすことができるだけで幸せなのだが、御仁は私のことを配慮して若干無理をしているだろうし、かなり疲れているだろうことを考えると、私の気持ちはさておき、ここは遠慮することにした。わたしとしては、御仁に対する精一杯の背伸びなのである。

ACの自分は、自分を満たすために人を利用するというところがあり、その結果、わがままを言って人を振り回したり、疲れさせたりすることがある。そういう自分が御仁に対しては自分が満たされようとすることを手放して、御仁がよくありますようにということを願う自分でいたいと思うなんて、驚きの成長だ。

とはいえ完全にそう思えているわけではないところが複雑でしんどい。御仁がよくありますようにというのは本心ではあるが、逢いたかったという自分の気持ちも本心だから、この2つの気持ちは対立して自分の中にずっともやもやする。せめて次の予定が約束されれば気持ちは落ち着くのだが、今のところその提案もなく、忙しい御仁に次の予定は?と伺うのも、しんどい話だろうと想像し、ここはひとまず待ちの姿勢でいこうと決めた。しかし待つのは結構しんどい・・・。

待つ時間をどう過ごすかを考えると、はやり自分を成長させるために、自分の仕事を粛々とやることに尽きることはわかっている。今日は前述のようなもやもやのために、自分の仕事に向き合えずに時間を費やしたが、このようにブログに自分の気持ちを整理することで何とか立て直そうとしている。

御仁が立派なことは確かだが、御仁の中に私の幸せがあるわけではない。わたしの幸せは、自分の中にある。自分と向き合うことでしか、それを感じる方法はない。自分の仕事に向き合おう。明珠在掌なのだ。