吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分との関係

4月17日天秤座の満月

人間関係を見直すタイミングらしい

 

かつての私は、他人のことを軸にして、自分のあり方や人間関係を捉えてきた。

 

他人からどう見られるか。

他人がどう評価するか。

 

いま改めて、人間関係を考える時、

私は自分との関係を想った。

 

これまで、他人のことばかり見て、私は私を蔑ろにした。

私は自分の声を聴こうとしなかった。

いつも自分自身を無視して、自分の側にいてあげなかった。

 

いま私が最も仲良くしたい人は、私だ。

最も大切にしたい人は、私だ。

ずっと話を聴いてあげたい人は、私だ。

いつも側にいてあげたい人は、私だ。

 

私はACで傷ついた自分をいじめることをやめました。

自分を罰することをやめました。

人に対する、期待は棄てました。

 

私はやんちゃな自分、子供っぽい自分、焼き餅焼きな自分、拗ねちゃう自分、どんな自分も大切にしています。

 

愛してるよ、私。

ありがとう、私。

 

他人は私を守らない

自分を守るのは自分であって、他人は私を守らない。

 

とても当たり前のことだ。

 

なのに何故、ずっとずっと他人の顔色を伺い、機嫌を取り、自分を良く見せよう等としてきたのか。

 

頭では何度も何度も、自分を自分で守ろうと決心しつつ、できないでいたのか。

 

きっと、自分で自分を受け止めるには、自分のことが心許なく、他人にOKもらわないと安心出来なかったのだろうと思う。

 

最近、職場の同僚に揚げ足を取られような出来事があった。私に非はあるが、同僚に対して、真っ向から私を非難しないでいて欲しい、どんな私も受け止めて欲しいという、甘えたい気持ちがあったと思う。

 

しかし実際には、冒頭のようなことが現実である。このような現実に私が気づくための出来事だった。

 

最初に非難された時、私は心身が硬直するのを感じた。さらに、この凍りつく感じに、身に覚えがあった。

 

何だろうと深掘りすると、父に怒られる時の感覚が蘇った。

 

その都度、見捨てられる恐怖を感じる一方で、怒りが入り混じる気持ちだった。また、根底には、どんな私であっても、見捨てないで欲しいという嘆きがあった気がする。

 

そんな悲しみを抱えつつ、私は父の時に理不尽な批判に、真っ向から立ち向かっていた。これで死んでも自分を曲げないぞという気持ちだった。

 

今回の件でそんな過去を思い起こしながら、命懸ける程、父に受け入れて欲しかった、結局は甘えたかったのだと改めて理解した。

 

私は若干アウトローな性質を自覚しているが、これも結局、悪い自分も含めてどんな私でも、その存在を受け入れて欲しいという世間を試すような甘えい欲求があったのではないかと思う。

 

あるいは、他人に受け入れて欲しくて、自分を抑えている反動のようにして、自分のアウトローな部分は、私が私の欲求に正直で、自分にOKを出せているのではないか。つまり、仮面をつけた自分はいつも他人の評価に過敏であるが、アウトローな自分については、他人に非難されるのが自明であり、自分の内側、自分の殻の中で、自分だけが認めてあげられる部分なのだ。

 

他人の評価を気にする自分をいつも責めてばかりいたが、アウトローではあってもちゃんと自分を認めてあげていたではないか。

アウトローな私を他人は非難し、受け止めるなんてしない。それは私のトラウマ的幻想であり、当たり前に他人は私を守らない。

 

今回の出来事では、私が幻想を捨て、そんな他人をありのままに受け止められる時が来た知らせだった。

 

他人は私を守らない。

私は私を守る。

絶対に。

 

自分の声に従って選択する

今日は御仁との予定を自らキャンセルした。

理由は体調が悪くて気持ちが向かないから。

私が用事以外の理由でキャンセルするのは、記憶上は2回目かと思う。

 

これまでは、どんなに疲れていても、自分の予定を調整してまでも、逢うことにしてきた。

 

逢いたい気持ちは確かにあるが、明らかに無理をしていたと思う。正確には、断ることの恐れが強すぎて、逢いたい以外の自分の気持ちの声が蓋をされ、もはや聴こえないしわからない時もあったのかなと思う。

 

そんなこんなで亀の歩みではあるが、日々自分の声を聴く練習はしている。今日は御仁の体調が少々よくないことがわかり、私の心のハードルが下がったことをきっかけに、改めて自分の声を聴くことにした。

 

貴女はどうしたい?

貴女はどっちが嬉しい?

 

…⁇

 

「今日は一人になって自分自身と仲良く過ごしたい。」

 

「わかった。今日は御仁との予定変更するね!」

 

恐れなくても大丈夫だよと自分を励まし、自分の中の自分に問いかけ、根気よく待ち、声を聴き、受け止めることができた。

 

相手には何と言おうかと暫く考えたが、言葉は選びつつも素直に自分のことを伝えた。

自分の声を聴いた私は、相手に対する恐れも手放していた。

 

そして2人で、次の予定について率直に打ち合わせができ、私の心はとても満足していた。

 

これまでは相手を優先しながらも自分が疲れ果て、相手に不満を持つことすらあったが、今回は自分の声に従うことで、相手の意向に沿わなかったが、関係がより深まる貴重な体験であった。

 

このようなことを。健全な人なら秒速で当たり前にやっているだろう。

 

私は不器用ながらも、時間をかけて自分の声を聴いて、行動を選択する。

 

自分と仲良く

 

選択はいつも変わっていい

強い人間になりたい

 

決めたことはやらなきゃ

ポジティブにならなきゃ

自己管理出来なきゃ

出来ない人はだめだめ

 


いや何か違うな…

 


ポジティブじゃない時があっていい

ポジティブになれるけど、今は、ポジティブでいないことを自分が選択するだけ

 


ポテチ食べたっていい

ポテチ我慢することもできるこど、今は、ポテチ食べると自分が選択するだけ

 


出来ない自分はダメだって、人間丸ごとを否定しない

単なる選択なんだから

 


選択って変わる

単なる行動だから

 


それがわかって自分否定を手放すと

他人に対する厳しさも手放せる

 


貴方は、今ポテチ食べることにしたのね。

私は、ポテチ食べてもオッケーなんだけど、

今は食べないことを選択するわ。

 


貴方は、今ネガティブなこと言いたいのね。

私は、ネガティブになることもオッケーなんだけど、今はネガティブを手放すことを選択するわ。

 


選択って変わる

行動って変わる

人間の本質じゃない

 

 

ほんの一部が表面に表れただけ

表れ方は、変幻自在

 


上善如水

 

ただ生きる

久しぶりに書きます。

 

これまで何度も書きたい気持ちになりつつも、書く行為までには至らず随分と月日が経っています。

 

これまで書きたい気持ちになった時というのは、AC的な自分がこれまで以上にずいぶん回復したと感じることについて、書きたいなと思っていました。

 

けれど今日、書きたいと思った理由は、とても些細なことから久しぶりに深く落ち込んでしまい、やっぱり自分はそんなに回復しているわけではないんだなと思ったためです。

自分でも何故にここまで落ち込むかなと、はてなが飛ぶくらいですが、なんだかひどく疲れているというか、エネルギーが不足しています。

 

今日は仕事が休みです。

私は仕事をかけ持っているので、仕事が休みの日でも、いろいろな残務を片付けるために喫茶店にこもったりします。自宅にこもってやるのはあまりやる気にならなくて、うるさくても他人がいる外の方がやる気になったりします。

今朝の時点では、今日も一気に残務を片付けようと思っていました。

けれど、今日は無理みたいです。

 

午前中に用事を済ませて、午後から喫茶店に行こうと思いつつ、動けない感じです。

あー弱っているなあと思い、何をしたら自分のエネルギーが回復するだろうと思いをめぐらせました。

 

映画はどうかな、エステかな・・・。

 

どれも心が動きません。

 

しかたがないので、amazonプライムで映画でもみて、だらだらしてやろうと思いました。普段なら恋愛ものを見ることも多いのですが、今日はそういう気分でもありませんでした。そして「生きてるだけで、愛」という菅田将暉出演の作品にあたりました。解説を見るとうつ病で過眠症の女性という、精神的に病んでいる人物が登場する話だったので、今日のように精神状態の悪い時にはあまりよくないかなあと思いつつ、これを観ました。

 

ひとことでいうと、登場人物のカップルは共依存そのものであり、ACや共依存で苦しむ私のような人間からすると、登場する女性の苦しさがとても伝わってきて、自分も苦しく感じるところもありました。けれども、登場人物を観客として、第三者として俯瞰して観ることで、逆に気持ちが落ち着く部分もありました。

 

というのは、登場人物に対する同情心のような、応援するような、慈しみのような気持ちになったことです。

 

「貴女はそのままでも、生きてていいんだよ。死なないでね。」

 

登場人物に対して、このような気持ちを抱きながら、このような言葉を自分が言って欲しいんだなと思いました。

しかも誰かにそれを言って欲しいのではなく、私が私に言って欲しいんだなと思いました。

 

他人軸でなく自分軸で、人のためでなく自分のために。ありのままで、自然体で。

ACの自分が無意識に他人の評価を恐れて生きていることを、やめたいとずっと思っていました。もう手放せたと思っていました。

 

でもひどく疲れた私は、「もう頑張らなくていいかな。」「もう何もしない自分でもいいかな。」と心の中で思わずつぶやいていました。

 

何故いつもいつも疲れ果てるまで仕事してんのかな。誰に強制されるわけでもないのに、休みの日も仕事して、いつも追われていて、いつも心身ともに疲れている。

 

何でかな。何でかな。何でかな。

自分に問いかけてみました。

 

やっぱり認めて欲しかったんだなと思いました。

他人に認めて欲しいというのも確かにあるけれども、自分自身に認めて欲しかったのだと思いました。

認めて欲しいというか、頑張らない自分は自分が認めてあげられないのだと思いました。

私は普段、頑張らない人に対して嫌悪感を抱きます。

それは頑張らない自分は赦せないのと同じだと思いました。

孤高の人である御仁を崇拝する一方で、頑張らない自分は御仁に認められないという恐れもあります。

 

けれど、最も私が恐れている人物、最も自分を責めている人物、いつも私を傷つけている人物は、私でした。

 

前からなんとなくわかってはいたのですが、たぶん目をそらしていたところがあります。

改めて、このことに向き合い、自分を赦すために、今日の落ち込みが必要だったのかなと思います。

 

今日観た作品の女性が相手の男性にこう言いました。

 

「いいなあ。あなたは私と別れることができていいなあ。私は私と別れることができない。」

 

頑張らない自分をたとえ他人や御仁が受け入れなくて別れることになっても、私は一生私と別れることはできなのだから、頑張れない自分も受け入れてあげようと思います。

 

 

 

 

 

他人の感情に影響される ーネガティブ編ー

新年早々ネガティブ編とは、これ如何にというところだが、自分の中のネガティブを否定しないでしっかり感じきってあげることで、自分を大切にする練習にしたいと思うわけです。

 

私には姉が2人いるのだが、昨年末、私の態度によって姉の機嫌を損ねる事件が起こった。具体的には、姉の仕事上の話を最初は熱心に聴いていたのだが、途中から愚痴が長くなり、私は体調の悪さも手伝って聴いているのが辛くなってきて、態度に出ていたようだ。それが姉の癇に障ったようで、「つまらない話でしたね。」と言ってぷんぷんし始めた。姉が憤慨した瞬間、私は「まずいっ」と思うと同時に、心臓がどきどきしたのだが、すぐに言い訳する言葉も気力もなく、私は無言でやり過ごすことにした。

 

一人になった時に、なぜそんなにどきどきしたのだろうと振り返った。このドキドキは昔、父を怒らせたかもしれない、父が不機嫌かもしれないと察した瞬間の体の反応と似ていた。頭でまずいと思うだけでなく、胸がどきどきして体が緊張する感じだ。自分の反応を俯瞰してみると同時に、家族全体の毒としてこの状況を見たときに、姉が父と同じだと思えてきた。そう理解した時、私は父の感情を損ねないように、父を怒らせたなら機嫌がなおるように言い訳をしたりした過去を思い起した。そのような過去を思う一方、「私は他人の機嫌を取ることをやめるのだ」と改めて自分に言い聞かせた。私には自分の体調や気分という私の事情があるのであり、一方的に不機嫌になったのは姉の領域の話である。姉の感情は姉のものであり、私が姉の機嫌を取る必要はない。そこにはしっかりと境界線を持っていいのだと自分を励ました。

 

しかしこのような理解は、ACの私が教科書的に学んだ知識による解説であるが、やはり染みついたトラウマはなかなか手ごわかった。その後もずっと自分がどきどきして、不機嫌になった姉のことを恐れていた。正月ともなると、実家に姉妹が寄ることになるので、この恐れを抱いたままでは耐えかねると思い、AC的な理解のある2番目の姉に打ち明けた。2番目の姉は、本当の他人だったらもう会わないかもしれないし線引きの話はわかるんだけど、身内だから関係をつづけなきゃらないので、「聴いてたけど体調悪くって、ごめんね~」くらいは言ったほうがよかったのかもという意見だった。私は2番目の姉に並々ならぬ信頼を置いていて、普段からよく意見を求めるし、姉の意見に妙に納得してしまうところがある。今回の意見にも、妙に納得してしまい、「今回はもう仕方ないけど、今度から気を付けるよ。」と言った。

 

そんな2番目の姉の意見にも影響されつつ、今日になって、やっぱり今回のことも謝って説明を追加した方がいいだろうかと急に思い立った。そして新年のあいさつがてら当該の姉に「気分を悪くさせてごめんね。実は●●。」と長々としたLINEを送ったのだ。送ってからもしばらく既読にならず、「機嫌が悪いから、わざとスルーしているのかな」と悶々とし、既読になっても返信メッセージが来ないので、「やっぱりかなり怒ってるのかな。」「こんな気分になるんだったら、やっぱり言い訳のLINEしなきゃよかったかな。」「でも自分の不機嫌をぶつけてくるなんて子どもじみててむかつく」とざわざわした元旦の一日を過ごした。

 

そんな一日を過ごして、心が疲れ果てたところで、今思うことは、今回のいろいろな感情をすべて私が感じること、再認識することこそが大切だったのかなと。

*当該の姉の不機嫌な態度にどきどきしたこと。

*不機嫌さをぶつけてくる姉に腹が立っていること。

*2番目の姉の意見で自分の行動を変えたこと。

*2番目の姉の意見で行動した結果、当該の姉の既読スルーにざわざわしたこと。

*やっぱり自分の意見で動いた方がよかったかなと感じたこと。

 

そう思うと、ACに私が書籍を読み漁り頭で理解したつもりでも本当にはわかっていなかったけど、やっぱりそうかと納得できるまで理解するに今回の感情体験は貴重だったと思える。特に俯瞰で気づいたことは、不機嫌な姉に恐怖を抱きつつも、怒りを覚えている点である。姉の子どもぽっさを否定する私自身、私の中の不機嫌な子どもぽっさを否定しているんだなと気づいた。

 

私の中にある恐れが、すっかり解消できたわけではないけれど、明日は笑顔で実家に寄ろうと思う。

御仁との体験で学んだポジティブ編のように、私が恐れをもって姉に対峙すれば姉の怒りを引き出すだろうが、恐れを手放し自分を否定することなく在ればいいのだと思う。

 

私は自分を守る強さと、相手の感情を受け止める強さを持ちたい。

壬寅の年を迎え、寅の如き強さとそこに秘めた優しさを忘れないように。

 

 

他人の感情に影響される ーポジティブ編ー

突然激高する父親の影響で、他人を怒らせていないかどうか無意識のうちに過敏になる。そんな必要はないと頭で理解しても、染みついたセンサーはそう簡単には消えないものだとつくづく思う。

 

しかし自分が影響を受ける他人の感情というのは、怒りや批判といった悪いものもあるが、楽観や笑い等という良いものもあり、改めて超ポジティブな御仁に影響される出来事があった。

 

約束をした時間に急な来客があり、15分程度時間を潰して欲しいと御仁から言われた。15分という喫茶店に入るのも中途半端なので、途中の駐車場に車を止めシートを倒して休むことにした。ふと目を開けると既に40分程経過している。メールもない。AC的な私は人に不満を漏らさずいい人を演じる癖があるし、待たされた自分の感情として怒っているのかさえわからない。自分の感情を感じることが苦手なのだ。

 

感じることが難しいのでやむなく、頭で考え始める。自分だったら5分でさえ人を待たせたら、びくびくする。40分も待たされるなんてひどい扱い、私を蔑ろにしているのではないか。いやいや、御仁は立派な人だし、大切な仕事の客人なのだから、御仁がその対応ができるように、私が平静でいられる人間になればいいのではないか。いやいや、私だって自分の時間は大切だ、それを怒らないのは私が自分を蔑ろにすることではないか。ここは「No」と言った方がいいのではないか・・・etc。

 

自分の気持ちがわからないだけに、いつも同じような悩みかただと、自分に半ば呆れつつ、私は御仁に「日を変えてもらっていいですか」とメールすることにした。何度も書き直しながら、45分が経過したら送信ボタンを押そうと意を決し、まさに送信ボタンを押しますよーというその瞬間に、御仁から電話がきた。

 

「終わりましたー。いいですよー。」

御仁の何とも屈託のない明るい声・・・。

 

 

「はーい」と、私は反射的に御仁と同じ調子で返答していた。

 

もし相手が、私のAC的習性のようにびくびくして、「ごめんねー。大丈夫?」等のように私の機嫌を伺うような対応であれば、待っている間の私のもやもやした気持ちはさらに増幅していただろう。

 

しかし御仁のような超ポジティブな人間の感情には、こんなにも恐れがないものかと感心してしまった。しかも、あんなにもやもやしていた自分のネガティブな感情が、他人のポジティブな感情に吹き飛ばされる不思議な体験であった。

 

御仁に逢った瞬間、私は素直に逢えた嬉しさを感じつつ、「日を変えますかってメールするところでしたよ」と素直に言えたことにも驚いた。

 

きっと明るく振舞うことを頭で考えて決めたわけではなく、御仁のポジティブな態度に私の心が素直に反応して行動した結果なので、頭で悩まず言葉が素直に口をついてでたのだと思う。

 

人のネガティブな感情に影響されて生きてきた自分が、ポジティブな感情の影響に感動するとともに、自分の中に沁みついた恐れを手放したいと思った出来事であった。