吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

八風吹不動天辺月

「どのような風が吹こうとも天に輝く月のように、清々と生きようと説く禅語。
自分を見失いそうになったときは、天の月の視点から俯瞰で眺めれば、出来事を冷静に受け止められる。」

 

私の日常的なバイブルは禅語であり、「禅語百選」なる書物を常に携帯している。そのきっかけとなったのが「八風吹不動天辺月」である。当時、取り組んでいたことがうまくいかずに落ち込んだり翻弄されたりしている私に対して、そういう時は動き回らずじっとして居なさいと御仁が教えてくれたのである。この禅語こそは、敬愛する御仁の在り方であり、私の目指す在り方である。

先日4月8日にスーパームーンがあり、久しぶりにこの禅語と向き合うきっかけとなった。禅語は頭で理解することはできるが、行動やあり方に体現するのはなかなか困難である。また何度も同じ禅語に触れながらも、その時々の自分の心の在り方によって言葉の味わいが異なるところが魅力だ。

 

AC的な私は自分以外の事柄や人に翻弄されやすい性分であり、特に御仁のことについては常時些細なことに一喜一憂していた。コロナ禍により「自分が逢わないことが病気を抱えている御仁の命を守ることになる」という究極の事態が、私に覚悟を与え、一気に肝が据わったように感じる。先に取り上げた「一期一会」も、いつも今現在が最期かもしれないと大切にしようとする覚悟をもたせたが、やはり気が緩むといつも明日もきっと無事に過ごせるはずという錯覚をもってしまうことに気づかされる。けれど、コロナ禍は、自分の油断により御仁の命を脅かしてはならぬという現実感を与えてくれた。

 

自分の変化は、何かひとつのことだけによるということはなくて、御仁やコロナ禍もさることながら、このブログで出逢う人々等、日々経験するすべてが影響を与えてくれていると感じる。5-6年前ACについて必死に理解しようとした時に斎藤学氏の書籍をむさぼり読んだことがあるが、このブログをきっかけに、久しぶりに斎藤氏の本に触れる機会を得た。斎藤氏はこれから生き抜くための位置づけとしてACを定義づけ、その対処を示す語り口はとても軽快で、思わず本を読みながら吹き出してしまったほどである。斎藤氏の本に、ACの人の印象的な語りがある。 

「私はずっと誰かと話したかった気がする。でもその相手は先生ではない。私は私自身と話したかったのだと思う。」

 

この箇所を読んだ瞬間、はっとさせられた。私は他の誰かではなく、私自身にもっと話を聞いて欲しかったのだと思った。以前の私は、ひとりで家に居ることが苦痛であり、TVをつけっぱなしにしていないととても無理だった。しかし最近の私はというと、ひとりで家に居る時間が好きだ。しかもTVはうるさく感じるようになり、静けさの中でたたずむのが好きだ。静かに自分と対話する時間が心地いい。

ようやく周囲の雑音を離れて、静かに私自身の話を聴けるようになったのだ。

 

御仁のことも、コロナ禍の中とにかく命が無事あることを想えば、すべてのことは些細に感じられ、一喜一憂することもあまりない。ひとりで家に居られなかった私が、こんな風にも変わるのだ。これまでのすべての出逢いに心から感謝する。これから遭遇する困難も含むことがらにも天辺の月のように粛々と向かい、これからの変化もじっくり味わっていこう。

「同じ風は吹かないよ。」困難に遭遇した時の御仁の励ましを心に・・・。