吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

是亦夢非亦夢(その1)

今日は冷たい雨が降っている。

今晩は逢いたい人に逢えるはずが、先方の急遽の仕事のために逢えなくなった。その連絡に際し、相手に罪悪感を感じさせないよういい人の反応をしなければと思い、了解した旨さらりとSNSに返信した。

そこから私のもやもやした悲しい気持ちが続いている。私の逢いたい人はとても大人でプラス思考の人なので、その人に対して私がマイナス言葉を慎重に省いて表現するように心がけている。しかし、そういう努力っていったい何なのかと今日はなんだかいつも以上にもやもやするのである。逢えないことが分かった時の落胆する気持ちを素直に表現すること=相手に罪悪感を感じさせることにはならないはずだと思えてきた。なぜなら良くも悪くもない落胆は私の正直な気持ちなのだから。そのことと、私が逢えないことに了解することとは、まったく両立する話である。

わたしにはよくあることだが、自分の気持ちを自動的に抑える癖があるために、自分の気持ちに気づくのに少々時間がかかる。そのため今回のようにいったん、反射的に優等生的返答をした後、数分、数時間後にようやくじわじわと自分の気持ちを自覚するに至る。気づいた時には、時間がたっているし、反射的に優等生的返答をしてしまったがゆえ、今さら気持ちを相手に伝えるには時すでに遅しなのである。

あーまたやってしまったと思いながら、次回はちゃんと残念な気持ちを伝えた上で、了解することも伝えようと心に誓った。まあこれが時間がたつとついつい忘れてまた反射的に優等生をしようとしてしまうかもしれないのだが、まあ何度でもやらかしながら、前進すればよいのだと自分をいたわってあげたい・・・。

いたわってあげたいというのは、冷たい雨のせいなのか何なのか、今日の一件で自分がいつも以上に落ち込んでいることを感じているのだ。「了解」と返答したものの、落胆する気持ちがゆえに、自分から次の日程調整を申し出るエネルギーはないのだが、相手から日程調整の連絡が入らなければそれはそれでさらに落ち込むので、SNSを開けることするしんどくてできないでいる。我ながらどうしたものやらとあきれる気持ちもあるが、ジャッジする悪い癖で自分を攻撃することだけ避けて、「あーそういう気分なのね」と優しく自分の気持ちを受け止めてあげたい。

この逢いたい人は、私たちが逢うことは、「現(うつつ)のことではなく楽しい錯覚・・・」と言われたことがある。だから今日の表現の禅語は「是亦夢非亦夢」。是とか非とかの相対的な知識や判断の執着から脱却した執着のない、さとりも学識も地位も忘れ去った境地をいうらしい。

逢えなかったこと、落胆を伝えることができなかったこと、SNSを開けることもできないこと等など、これらの出来事はどれも是でもなく非でもなく執着しないことに決めた。今晩はSNSを見ようか見まいかと悩み執着するのだろうが、それも良し。

わたしが自分の気持ちを優先するならばこうなるのだが、共依存的な私としては、もし相手がSNSにメッセージをくれていたとしたら、私が既読にしないことで傷つくのではないかと心配になり、自分の気持ちを無視してSNSをチェックしてみたりして、でも結局SNSにメッセージがなかったりしたら、さらに落ち込んでとう負のスパイラルが考えられる。

相手を想うことと自分をおざなりにすることとの間がやっぱり難しい。何が基準かというと、不安からそうするのではなく、自分がそうしたいとか心地よいかどうかだと本に書いてあったりして、なるほどそうかと思う部分もあるが、子ども時代から不安や恐怖に反応して行動することがパターンであり、自分の気持ちに焦点を当てようとしても「はてな?自分は今どう感じているのだろうか????」ということがよくある。しかし、不安に反応する行動パターンがあることが意識できれば、わからなくても自分の気持ちを尋ねることを毎回意識できれば少しずつでも前進することは間違いない。

それでいいのだ。