吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

自分に向かう

ここ数日、心が不安定でそわそわしていた。

10月頃のある出来事で、やっぱり自分の世話をするのは自分しかいないのだと腑に落ちて、幼少期のトラウマに何年も不安定に生きてきた自分に終止符を打てると思ったのに、やっぱり駄目だな私と、落ち込んでしまった。

しかし改めて思うと、何事も無常なのだから、いい日もあれば思わしくない日もあること自体を認めることこそが必要だったのだと気づく。

また自分と向き合うためのネタ探しをしていたところ、何事も主語を自分にして、常に他者でなく自分自身に矢印を向けることが大切という記事が目に入った。

特段初めて知ることでもないのだが、気づけば矢印が他者にばかり向かっている自分に気づく。

これは幼少期の環境による癖なので仕方ないが、その都度気づけば手放すこともできるかもしれない。

幼少期のトラウマは消せないが、トラウマによる反応は変えられる。

しかしそれは一足飛びにはいかない。

毎日毎日、毎瞬毎瞬、自分に矢印を向けて、自分に尋ねて、自分を感じきるしかない。

自分の中に他者を入れずに、自分自身と2人きりで。

そのためには、なるべく外部の刺激を少なくする。

SNS等で他者の世界を映すことは最小限にして、自分に起こる感情に「どうしたの?」「何が言いたいの?」と声をかけて。

そんな不器用な生き方も、幼少期から長い間他者の脅威に晒されながらも堅い仮面で自分を守り生き延びた自分自身への感謝と恩返しのつもりで地道にいこうと思う。

 

本当によく生き延びたね自分。

仮面を外すの本当に怖くて怖くてあの時みたいに体が固まっちゃうね。

あの時、小さい体で怖くて怖くて、寂しくて寂しくて、気を失いそうになったよね。

あの時、助けてくれた恩人のご夫婦がいたよね。

あの時の甘くて温っかい牛乳の味は忘れない。

そうやって貴女は生きていける。

あの時のご夫婦のように、私が絶対に貴女を守る。

もう他人の機嫌を取らなくていいよ。怖がらなくていいよ。

自分に向かって、自分のために生きていいよ。

トラウマは貴女が生き延びた勲章。

 

今の気分

御仁のイベント参加を表明するにも随分と躊躇した

お邪魔じゃないかと

自分が歓迎されないかもしれないと恐怖心が湧いた

怖いならやめよう、怖いけど勇気を出そうと

考えがぐるぐるし過ぎて疲れ果てたので

だったら早めに宣言してしまえと午前中に御仁に出席連絡

既読になるまで不安はピークに達してさらに疲れ果て

頭を冷やすためにまずは自分の仕事に向かう

 

どうにか冷静さを取り戻した午後

なんとかイベントに参加

参加してみると仕事に向かう御仁の姿を傍で見るのは至福

でもちょっと遠い感じで寂しさもあり

人が居なくなり御仁と二人になるとやや緊張

でもちょこっと傍に近づけて嬉しい

と、思う間も無く次の瞬間仕事モードに豹変されちょっと悲しい

落ち着いたと思うとスマホいじりが始まり寂しい

せっかく二人きりなのになぁと

そばでそわそわしてると

そろそろ戻ってくるよと

素っ気ない一言にやや怒り💢

黙って一緒にいてもそれはそれでいいのだが

つまんない

まあお疲れでしょうからよしと思うことにしつつ

自分が怒ってることを十分自覚できず

いつもはしないFBのいいねを

しなきゃならない気持ちになる

いいねするかしないかをなぜそんなに悩んでいるのか

馬鹿馬鹿しくなり自分に呆れつつ

いいねしては取り消しを2-3度繰り返す

ああそうか

いつもは不快な感情を御仁に悟られないよう押し殺してるが

今まさに浮かんでる不満を悟られないためにいいねを押さなければと思った自分を理解した

それに気づいたので即座にいいねを取り消した

相変わらず自分の気持ちを受け取るのに時間がかかる

めんどくさいな自分

でもしょうがない

何年も何年も自分の気持ちを封じ込めてきたのだから

素直になることを禁じてきたのだから

悪い感情を持ったり、悪態をつくことで殴られてきたのだから

まだまだ自分の中には怯えた子どもがいて

小さな背中を震わせている

怖い怖いと泣いている

見捨てられそうで怖いと

独りぼっちで寂しいと

私を気にかけて欲しいと

私を抱きしめて欲しいと

そんな自分をしっかり感じよう

怖かったのね

決して貴女を見捨てたりしないわ

悪い感情を持ってる貴女も

悪態ついてる貴女も

どんな貴女も私にとってかけがえのない人なの

どんな貴女も愛おしくてだいすきよ

寂しい時はいつでも来てね

一緒に遊ぼう

私はいつでも貴女の傍にいるわ

怖い時は怖いよーって言っていいのよ

寂しい時はさびよーって言っていいのよ

むかついた時はむかつくって言っていいのよ

誰かを嫌いになってもいいのよ

嫌だなって感じていいのよ

無理して笑顔でいる必要はないのよ

仏頂面だっていいのよ

貴女の気持ちを隠す必要はないのよ

いつでも正直に感じていいのよ

私はどんな時も貴女の味方だから

私はどんな時も貴女を守るわ

愛してる

 

 

 

 

 

しんどい

何だかしんどい

何がという具体があるようでないようで

親との確執、上司や組織への反発

いろいろなことに抗って

それらをエネルギーにして生きてきたことそのものに疲れてしまった

抗うことに意味があったのか

そこに自分自身の本質はあったのか

自分の真の喜びはあったのだろうか

結局は抗う対象に縛られて来ただけだったのではないか

ひとつのことが上手くいかないことで

全てが虚しくなってきた

もう何かに抗って生きる必要がないなら

何をエネルギーに生きたらいいのだろうか

そもそも自分の中から湧き出すエネルギーは無いように感じる

少し前に自分はもう大丈夫だと感じたのも束の間

相変わらず他人は怖いし寂しい

何事も表裏一体、光と影、陰陽だと自分に言い聞かせても

心が悲鳴をあげている

もう疲れた

切なさを認めます

御仁と逢う予定の日、

私はあまり体調がよくなかったが、

せっかく二人で逢う貴重なひと時のために、

何とか頑張ろうか、

あるいは延期しようかと悶々としていた。

 

そんな時、仕事の流れで今夜は無理かもと、

御仁からメールが入った。

残念だけど、体調的にほっとした気持ちで、

「私も用事でクタクタだったので日程変更希望です」

とすぐさま返信した。

 

この返信は正直であると同時に、

御仁が自分の都合で約束をキャンセルすることに、申し訳なく思わないようにという気持ちもあったし、

疲れた自分を「大丈夫か?」と

気にかけて欲しい気持ちがあった。

 

御仁はというと、

すぐに既読になったものの返信は無し、、、。

 

そもそも仕事には全集中の人だから、

自分も気にせず仕事に注力すればいいかと気持ちを奮いたたせつつ、

私がクタクタだって言ったから休めるようにとメールを控えた可能性もあるよなと、自分を納得させようとした。

 

だとしたら、翌日なら様子伺いで「大丈夫か?」って、連絡来ないかなぁと期待する一方で、御仁も最近少々体調がよくなかったので

多忙な折、大丈夫だったかなあと心配した。

 

心配しながらFBを覗くと今日も仕事に邁進している記事だったので、安堵してすぐさまいいねを押した。

次の瞬間には、元気なら具合伺いのメールくれてもいいのにと、拗ねる気持ちが出てきて、いいねを取消したくなった。

 

とにかく御仁は思いのまま飛び回る自由が重要な人だから、私からああして欲しい、こうして欲しいなどという要求は、言語道断であることはこれまでの経験で百も承知だ。

 

しかし御仁がそうだからといって、

私の気持ちは私のものとして独立した存在だから、気にかけてメールして来ない御仁に対する怒りは事実として在る。

私はいつも微笑む女神では無いのだし、

しかも今宵は体調もよくない。

 

明日はFBに勢いでいいねすることも無いだろう。

次に私からメールすることも無いだろう。

二人は本来、何も無いのだ。

何か在るのがおまけギフトだった。

そのことを思い出しておこう。

 

ここ最近は御仁からの連絡待ちが基本だったので、ついつい期待しとしまった。

 

そんな自分の切なさを認めて、そっと流し去ろう。

御仁が仕事に邁進する姿を思い浮かべながら。

 

また逢う日迄。

 

 

善意への恐れを手放す

親の機嫌にアンテナを張って生きてきた分、

相手の機嫌が気になるのは仕方ないかなと、

それは自分の一部として認められるようになってきた。

 

機嫌が気になるとしても、

責められる、批判される等の恐怖心は、

随分と減ってきた。

 

ある程度の気になりは、言葉をかえると空気がよめる、配慮ができる等と肯定的にとらえてみようと思うし、恐がってる自分でもいいじゃないかと思えるようになってきた。

 

そんな折に、今日の体験で、相手からの攻撃よりも不得手なのは、相手の善意への対応であることを思い出した。

 

相手の善意が、自分にとって不本意であったり受け取りたいと思わない場合に、それを受け入れないことに罪悪感を感じる。

攻撃はかわせばよいが、善意はどうすればいいか。

 

裁縫が趣味の友人が、製作した衣服を私にくれるというのだが、柄が派手めで私の好みではなかった。

「私には派手かな〜」

と正直に言葉にしてみるが、

とにかく試着してみてというので、着てみると「素敵じゃないの。似合ってるよ。持って帰って。」と、勧める。

気持ちが乗らないが、そんなに勧められては断るのも悪いなと思い、持ち帰ることにした。

 

帰り際に友人が

「それ売る場合は1万円だから、今度なんか奢ってくれたらいいよ!」と言うので、思わず「えっ!私、買ったの?」と声を上げてしまった。

すると友人は「いやあ〜、そこで期待してはいけないから、いいんですけどね」と。

その表情が、なんだか寂しそうに感じられたので、私はもやもやした。

 

このもやもやを解説すると、

友人は裁縫が単なる趣味であったのだが、近々マルシェなどで販売出来るようステップアップを目指している最中だった。

その際、自分の作品の価値を価格に表現するのが悩みのタネだと話していた。

だから、作品を受け取る私が、彼女が思うような価格の価値を受け入れる反応が期待されていたと思う。

しかしこの作品は私にとっては、その価格の価値と等価ではなかったので、2人の間にはギャップが生じた。

 

寂しそうな彼女に対して、罪悪感のような感覚があった。

ただ罪悪感と言っても、昔の感覚とは違う。

以前なら、私が彼女の期待に合わせられなかっことに対する罪悪感を感じただろう。

今日の場合は、商品化に向けステップアップしようとする彼女の友人としては、この作品が好みでないこと、だから受け取らないことを正直に言うべきだったのではないかというものだった。

ただ、「べき」は私にとっては要注意Wordである。実際、彼女とのやり取りの瞬間ごとに私は心の声を聴き、表出するという2人の関係性、相互作用の結果なので、そこに良い悪いはなく、べき論や反省は無用なのではないかと思う。

ただ起こったことをあるがままに受け取ること、商品化への彼女の想い、彼女が作品を渡したかったという気持ち、私の趣味感覚、彼女を喜ばせようとする必要はないこと、好みじゃなくても試してみてもいいんじゃないかという軽い感じ、ちゃんと着こなさないと悪い等と思う必要はないこと等。

自分より相手を優先しよう等とせず、まず自分の気持ちを感じ、相手の気持ちも感じ、正直なやり取りをする。

優劣、良し悪し、正解不正解等のジャッジをせず、あるがままに受けとめること。

 

今日の出来事は、私がこのことを理解する為のものだったのではないだろうか。

 

そうですが何か?

自己批判をやめたいのに

ずっと自己批判が止まらなかったが

最近は随分と自分と仲良くできるようになって来た

 

自分が自分らしくいるかどうかは

その時々の瞬間に湧く感覚でわかるようになってきた

 

出来事にむっとした瞬間

批判しないでむっとした自分を俯瞰で見ていられるならOK

 

今日は自分の変化を感じた出来事が2つあった

 

その①

ついこの間まで

父親との会話が癇に障り、きつい口調で応対すると

次の瞬間には罪悪感にかられていた

けど今日は違った

ああ、またこの人はこんなこと言ってるわ

むかつくわあ…以上

 

その②

私は何事もスタイルから入るミーハータイプ

それを本物志向の御仁には一蹴されていた

その度にミーハーは駄目、もっと本物志向にならねばと自分を批判していた

けど今日は違った

イベントに出店していた珈琲屋さんが

今日の満月に合わせて豆をブレンドしたという

私は、わあ〜それは是非に買った

案の定、御仁は「そういうのにつられるんだな」と呟いた

しかし私は満面の笑みで何の躊躇なく秒で応えていた

「そおそお、好きなんですよ〜そういうのがっ!」

わくわく…以上

 

これらふたつの出来事で

自分と仲良くなれた自分を心から感じられた

もはや自己批判する自分をも批判しないでいられそうな気がした

人間だから調子の良い時も思わしくない時もあるから

自己批判する日があってもよい

嗚呼、今日は調子悪いんだわあ

じゃ休もっかあと

自分に優しくできそうだ

 

手放しの満月

観月祭の夜に

 

自分を守れた

30年来の男友達に誘われて久しぶりにご飯を食べた

 

30年前は精神的に不安定で独りの寂しさに耐える力が無かったので

この友達とは中途半端な付き合いをした

友達には私と付き合っていたという認識があるようで

飲んで口を開くとあの時はああだったよねとか昔の思い出話をする

しかし私には付き合っていた認識は無かった

自分の寂しさを埋めるための道具に過ぎなかった

けれどそんなことは言えないので

にこにこ笑って適当に話を合わせていた

 

5年程前にも誘われて2人でご飯を食べた時も同じだった

一緒に時間を過ごしても楽しいということでも無かったし

人としての魅力を感じることも無かった

仕事の愚痴も多くて尊敬する存在でも無かった

ただ誘われることで満たされる部分もあったし

断るだけの確固とした自分も無かった

 

酔った勢いでハグやキスを迫られても

その場に合わせて流されることを選んでいた

嫌だなという気持ちも無くはなかったが

求められることに満たされる部分もあっただろうし

当時の私は自分の気持ちより他人が優先だったから

他人の好意を断ることが出来なかった

 

今回の誘いにも乗り気でなく何ヶ月かやり過ごしていたのだが

ふっとある時に行くことを選択した

 

今の自分は、自分の本心に蓋をしてにこにこ仮面をつけて

相手に合わせる自分ではないという

確信のようなものを持っていた

ご飯を食べ相手の話を聴きながら

私は自分の心にも意識を向けていた

 

瞬間瞬間に起こる自分の気持ちを眺めていると

無理ににこにこする必要はなかったし、

実際そうすることも無かった

友達の言動に不快感を覚えることもあったが

ジャッジしないで感じるにままにしておこうという意識も自覚できた

 

店を出て歩き始めると、案の定体を近づけてきたが

「やーめーてーよー」

と敢えて明るい口調で言って回避した

このような行動が悩むことなく瞬時に出来たことに我ながら感心した

 

嗚呼

もう私は、自分を守れるようになったのだ

ようやくここ迄辿り着いた

自分を誇りに思う

 

私は独りの寂しさに耐える力があるし

何より私は自分と仲良く楽しむことが出来るようになった

心の穴は自分で埋められるから他人に埋めてもらう必要はない

もうこの人と2人で会うことはないと確信した

今回会う選択をしたのは

そんな自分の成長を確認する為だったのかなと思う

 

残された命の時間は

自分の気持ちの歓びを道標に

心から尊敬し愛する人と過ごしたい