いつも冷静でいなければならない
感情的になってはいけない
怒ってはいけない
等など
このような禁止事項がたくさん自分の中にあった
だからこそ、禁止事項が達成できない時は、自分責めが止まらず生きづらさにつながっていた。
同時に、私の禁止事項に反する行動をとる人物が許せなかった。
ある人と対話した際に、私は若干混乱することがあった。
その人は相手を受け止めることを大切にしつつも、相手に対して怒ることをしていたからだ。
私の中ではずっと、「受け止めること=相手に対して怒りを持たないこと」という定式があったため、「相手に対して怒りがあるというのは、相手のことを受け止められていないのだ」と捉えていたからだ。
この度の気づきは、先日来もやもやしている長姉とのやりとりで行き着いた。
長姉は第一子らしく愛情いっぱいに育てられ、自由奔放で天真爛漫な性質である。
何事もべき論、ねばならないという観点でとらえる私からすると、そんなことお構いなしに、やるべきことをやらない態度にいらいらさせられるのだ。
今回の様々な出来事も、私からすると、アラ還で仕事では管理職をしている長姉が、なぜこんなことができないのかと怒り心頭だったわけだ。
これまでは怒りを隠して、相手が何とか自分も課題に気づくようにとオブラートに包んだ言葉を選び対応してきたが、功を奏してこなかった。
今回は、言葉をオブラートに包むことなく率直に述べたつもりだが、その後のやり取りを見ても、長姉には事の本質がわからないのだなということがわかった。
今回の一連を、改めて自分ごとを振り返ってみた。
そもそも言葉をオブラートに包んで相手にわかって欲しいなどというのは、私が期待まみれ過ぎていたのかなと思う。
率直に言ってみたことで初めて、それでも私の期待するゴールに長姉が気づけないことが改めてわかり、そうあっても致し方ないと思えた。
そもそも違う人間だし、経験も学びも異なる。もはや良い悪いではない。
私は常に正しさを道標に生きてきたので、正しくない人も許せなければ、自分も許せず、自分責めが生きづらさになっていた。
貴女だって出来ないことあるでしょと言われても、そりゃそうだけど、だからって、まあいいじゃんとは思えず、なんであるべき姿に持っていけないんだよと怒りが消えなかったのだ。
しかしここにきて管理職でありスキルを持つべき長姉が、ここ何年も役割遂行できない姿を見て、この人には無理なんだとようやく受け入れる気持ちになってきた。
さらにこんなふうな受け止めは、たとえ怒りがあっても、別次元でできるものなのだな。
小さな子どもに怒りつつ、あー無理なのねと受け止めるのと一緒かな。
出来ないのは仕方ないとなると、自分が出来ないことだって、出来ないですが何か❓的な感じにみえてくる。
軍隊のよう右むけ右の学校や家庭で教えられた価値観の鎧を外す時がきた。
その鎧は他人からの攻撃を避けたり、自分自身からの攻撃を防ぐものかもしれないが、もう要らない。
出来ようが、出来まいが、それでいいとわかったから。
けれど大切なのは、感情は勝手に湧き上がるものであり、私の本質と違うから自由に浮かんでいい。
これからは、怒り感じつつ、相手を受け止めらる。