吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

何もしない

明らかにエネルギーが低下している

 

2日程前、恩師が新聞に取り上げられたり、

友人の活動が受賞したりと、

人々の活躍を歓喜する出来事が続いた。

 

どちらのことも、その水面下にある地道な努力を側で見ていたので、本当に嬉しい気持ちだった。

 

もはや人と自分を比較して卑下することからは脱していると感じているが、

彼らの輝かしさをきっかけに

自分が道半ばにあること、

目指す道がはるか遠くに感じられた。

 

珍しく泣きたくなる。

ただ自然に涙が出る。

 

でも自分の道を諦めてはいない。

むしろ諦められたなら、

こんなに悲しくもならないだろう。

 

私は我が道を往くと決めている。

後戻りはしない。

諦めたりしない。

 

だけど

今日は何もしない。

 

自分のエネルギーを復活させたら、

また往く

 

往くために休もう

 

 

コントロールはやめた

親にコントロールされてきた自分は

子どもを決してコントロールしないよう

距離を取らねばと意識してきたつもりだった

 

子どもが思春期を迎え

いろいろと難しい局面にきて

その距離は適切ではなかったのではないか

 

一緒にいないことを距離だと言って

仕事依存性の自分を正当化したのではないか

自立だと言って子どもに寂しい思いをさせたのではないか

 

こうであるべきと子どもに要求してコントロールしてきたのではないか

 

過ぎたことはどうしようもないとわかっていても

幼い頃の子どもの写真を眺めると胸が苦しくなることがある

 

それでも私がACとして辛かったことと同じくらい、沢山の学びを得たように

自分の居るところから、多くを学び強く生きて欲しい

 

万能でない母の背中を見て

万能でない自分を慈しんで生きて欲しい

不器用な母ではあるが、どんな貴方であっても愛している

 

もう貴方をコントロールしない

貴方が自分の人生を往く時がきた

 

 

原家族との距離

私の原家族は父がDV男

母は父の支配枠内に子ども達を入れ込もうと必死だった

 

長女は、待望の第一子として愛情を受け、次女は生まれてすぐ病気が発覚し両親の関心を集めた

 

三女の私は、病気の次女が亡くなると長女がひとりで可哀想だからという父の意向により、年子でもうけられた

 

母曰く、病気の次女を道連れに死のうと思ったこともあるし、子どもを作るどころでなく嫌だったが、上記の父の意向があったそうだ

 

そんなストレスで、母は急に母乳が出ない状態に陥ったし、次女の入退院に付き添い、私の世話は祖母に頼んだそうだ

 

次女は2歳の時に手術が成功し、山場を越えたが、小学生の頃も何度か入退院をしていた

 

その間、私は鍵っ子になり、次女とは仲良しだった分、寂しい思いをしたし、両親の関心を集める姉がうらやましかった

 

三姉妹の中でも取り分け私は両親との確執が強く、父のDVに真正面から闘って、母にとめられたりしつつ、母との心の交流もできないまま、高校を卒業して家を出た

 

次女は半ば父の指示で出戻りとなり、まるで召使いのように日々の雑事を担っている

次女曰く、病弱で親に世話になった分、返さないといけないかなという罪悪感のような気持ちもあるという

 

わたしは、父の指図を受けたくないので、実家には用事が無ければ帰らないよう距離を取っている

 

一方で、次女とは何でも打ち明けるし、親や長女には決して見せない自分の弱音の姿を見せる

 

けれど原家族というのは、他人との距離感に比べると、何かと遠慮がない分、不快な思いをすることもあるもので、今日はまさに次女とそういう場面に遭遇した

 

しかし普段弱音を受け止めてもらう関係上、

次女に対するネガティブな感情自体の扱いに困った

 

親しき中にも礼儀ありだぞと言いたいけれど、

ひとまず自分ができることとして、物理的に距離を取ることにした

 

強くなりたいと思いつつ、ついつい誰かに甘えたくなり、そういう時にいつも次女を頼っていたので、ネガティブな感情には罪悪感もあったのか、怒りが出せない自分がいた

 

でも人間は所詮ひとり

何事も自分で背負う気概が必要

 

姉といえども配慮のなさは嫌

しばらく距離をおこう

自分を守るために

 

お疲れさまの私

おやすみ😴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合わせてばかりで疲れた

今日は知人のイベント手伝いだった

 

不慣れな人々との関わりは、

自動的によそ行きの自分になってしまう

 

一方、いつも通りのらしさでいる人に対して、私はこんなにも無理して合わせているのにと

妬ましい気持ちにすらなってしまう

そしてそんな自分を批判的に見てしまう

 

ああ、疲れた…

お疲れさま自分

 

せめて帰宅後は、自分を労ってあげたい

 

 

クールに我慢しない

感情的になりたくない

動じない人になりたい

 

そんな自分の願望がいつしか

異なる思考に誤変換されてきた

 

怒ってはいけない

腹が立っても我慢しなければならない

腹が立つ自分は未熟者だ

 

そうじゃない

 

怒りという感情は自分自身ではなく

自然に湧いてくる雲のようなもの

良いも悪いもない

 

不快な出来事があったら、

不快を感じている自分に

そのまま感じていていいよと

言ってあげよう

 

愛想笑いはしない

オリンピック選手やプロスポーツ選手を見ていると、

愛想笑いする人はほぼいない

きっと自分の成すべきことに注力しているので、

他人の承認を得るような愛想笑い等まったく必要ないのだろうなと思う

 

そこで「愛想笑いはしない」と何度も自分に言い聞かせたのだが、

気づいたら愛想笑いしている

 

笑顔は人との関係の中で悪いものではないだろうが、

愛想笑いをするときは、たいてい自分の中の負の感情を隠そうとしているように感じて後味が悪い

 

負の感情を隠すことが悪いわけではないが、

取り繕っている自分が嫌なのだ

 

感情に良いも悪いもないのだから、取り繕う必要はない

愛想笑いをする自分は、自分の中のに起こる負の感情を悪だと思っているのかもしれない

 

そんな感情を持つ自分も否定し愛想笑いでもしないと、関係が悪くなりそうな不安を持っているのかもしれない

 

そんな自分の感情をああだこうだと分析したところで、正解がわかるわけでもない

 

ただ愛想笑いをやめてみようと思う

行動が変われば何かが見えてくるかもしれないし

 

今の自分のそんな気分を採用してあげようと思う

 

 

次のステージに

他者とのやり取りに生じたモヤモヤを

見つめてみた

 

原因はやはり私自身の承認欲求だった

 

承認欲求は捨てなければと知っていたのにと

自分を責めたくなる

 

いやまてよ

 

もう少し前は自分を責めてばかりいた

こんな私は、他者から批判されてるはずと

自己否定していた

 

それに比べたら、承認欲求は

私を認めてくれるはず

私を認めて欲しいと

自己肯定の上で他者に差出している

 

だとすれば、自己否定の段階を抜けだしたのではないか

 

次のステージに上がってるのではないか

案外ええじゃないか自分

 

亀の歩みで少しずつであっても

時に戻り道しても

次のステージに向かうのだ

 

自己否定を手放せた今

自分の承認を人に委ねるのをやめ

私が私を承認する

 

いいぞ自分!