「鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」
最近出逢い、深く心に沁みている言葉だ。
意味は、
「口に出してあれこれ言う人よりも、口に出さずに内に秘めている思いの方が切実で、心の中では深く思っていることのたとえ。」
秋はわたしにとって修行の月である。
というのは御仁やその近しい女性たちの誕生月であり、その仲間内でお祝いをするのが毎年の恒例である。それはたまたま自分の誕生月と仲間とが同じなので覚えているのだが、御仁は記念日や人の誕生日を覚えない。しかし、私は女性にありがちな記念日や誕生日にやたらとこだわるところがある。御仁が仲間の女性たちと誕生日を祝っているのをFBで知った時、「私の誕生日はスルーしたのに・・・」「もし私のことを想ってくれるなら、誕生日は気にかけるのが当然で、覚えるはず・・、覚えないのは私のことをそれほど想ってないのか・・・。」と妬みの気持ち等が沸いて自分を苦しめた。それでも私がしつこく誕生日を覚えてもらうよう何度もインプットした結果、昨年はSNSで「おめでとう。今度お祝いしようね。」のメッセージがあり、とても嬉しかった。けれど、結局、その後もお祝い企画はなく、今年の誕生日はメッセージも来ず、しびれを切らして23時50分くらいに、「今日は何の日か覚えてますか」と催促のメッセージをしたところようやく「おめでとう」のメッセージが返ってきたので、心底空しく悲しさがこみあげてきて、もう御仁に誕生日を期待するのをやめようと思った。
最初の頃は、「私の誕生日も覚えないとすねちゃうよー」等として、相手を変えようとしていた。けれど御仁のような人物が、こんな些細なことで変わるはずもない。それに、「誕生日を覚えて、何かすること」と「愛情の重さ」をイコールで結ぼうとするのは、私の妄想的ジャッジに過ぎないと、最近は考えるようにしている。しかも何時も「過去と他人は変えられない」のが基本である。だから私は人に期待せず、自分の成長にのみ期待をかけ、御仁には誕生日のことはもう言わない。
そんなこんなで、誕生日のこだわりの強い私が、いくら思考を整理したところで、感情というのは勝手に湧いてくるものだから、やはりお祝い会の知らせを見ると気持ちがざわざわ反応している。そんな今、反応した自分を受け入れ、その気持ちを理解することで、自然に流れていくのを待っているところである。このブログにこんなことをつらつらと書いているのも、反応から気持ちをそらせ自分に集中させるためである。これも修行のうち。
「女性は何かと言葉を欲しがる」一方、「男は黙って行動する」という違いがある。私もたとえ行動してくれなくても、言葉で慰めてくれたら気持ちがおさまるのにと思っていたことがある。「言葉にしないと伝わらないよ」と思っていた。
けれど御仁についていうと、愛情を表すような言葉は言わないし、ヘアスタイルを変えた等という女性が気づいて言葉にして欲しいようなことは、たとえそれを知っていても言わない。
もし相手に言葉を求められたらどうするかという質問したことがあるのだが、「求められたら言うよ」とさらりと答えた。「男気」を重んじている人なので、「男はそういうことは言わないのだ」とこだわりの主義主張の答えが返ってくると予想していたので、拍子抜けした。またとっさに、「へえ、では私に対する感情も聞けば言葉にしてくれるのかな。」と興味が沸いたが、言葉にされるのも怖いと思い、咄嗟にその質問は喉の奥に引っ込めた。言葉はもらった瞬間は嬉しいものだが、その直後にたちまち過去の出来事になる。そして、「あの時、ああ言ったじゃないの。」と、その過去にすぎない言葉に執着して、結果自分が苦しくなる。
「言わなくても、こういう風にしていたらわかるだろ。」と言いながら、髪を撫でてくれるその手の温もりを感じながら、言葉に執着するのはやめようと心から思った。
同じように、御仁に対する私の愛情は、言葉にできない。言葉で言っても、手紙に書いても、そんなのでは足りないと感じるから。
言葉じゃ言い尽くせないなら、言葉にしないほうがいい。言葉にしたくない。
おっ、そうか、もしかして、
「御仁が言葉にしないのも、想いが深いということかもしれない。」
修行のひとこと。
「同じ妄想するなら人を妬んで自分を苦しめる妄想より、勝手に幸せな妄想に浸っちゃおう。」
前進するも仕事、踏ん張るも仕事。
歩々是道道場