吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

両忘で

「両忘で・・・」数年前に御仁から教わった禅語である。

 

両忘とは、白か黒かというような相対的な対立を忘れ去り、二元的な考え方から脱すること…。   中庸とも少し異なる。

ゼロか百かという両極端な自分の性格が、実はACの特徴からくると知ったのは、ACについて本格的に学び始めた5-6年前くらいのこと。私は自分の心の苦しさから心理系の書物をよく読んでいたので、ACというワードは何となく知っていたが、本格的に知ることとなったのは、アルコール依存症と思われるパートナーのことをどうにかしなければと思い読んだ本がきっかけであった。

 

アルコール依存症も病気ではあるが、そのパートナーである私自身が、共依存、ACという病気であることを理解したのだ。とても心当たりがあり苦しかったが、とても腑に落ちる感じがあり、これまでの苦しさから抜け出す道筋が見えたような気がした。ACを自覚した私は回復の努力を続けているが、共依存にあるパートナーとの関係修復はかなりハードルが高く感じる。あるいは関係修復というより、私が共依存パートナーから離れることを決断できる時、わたしはACから回復したといえるのではないかと思ったりする。

 

共依存は相手の世話を焼き、尽くし尽くされることでお互いの存在を確かなものにし安心するという関係。ともすると相手を骨抜きにし傷をなめ合うような、べたべたした距離の関係であり、相手の成長よりも自分の安心感が優先される。だからこそ離れられない。

一方、自立した者同士の関係は、自分の世話は自分でするのが当然であり、かまってちゃんは受け入れられない。常に相手と自分の成長を願うため一定の距離を保つことが必要なので、私のようなACが感じる甘えたい気持ちや寂しい気持ちを相手にぶつけるわけにはいかないという点でしんどい。

 

両忘を教えてくれた御仁は、まさに後者の人間である。私は御仁のことをこよなく敬愛しているが、私の共依存的な癖でうっかり近づきすぎると叱られる。自分の心が疲れた時に癒してもらおうという態度が見えると「エネルギーは自分で補給しろ」とすかさず言われる。

両忘が両極端を避けることといいながら、私にとってパートナーと御仁という2種類の人間関係は、まさに両極端なのである。AC的自分が御仁のような人間に対峙するのは、正直心理的にかなりしんどい。共依存の人間は、人を振り回すこと、振り回されてくれることで愛情を感じるのだが、御仁は決してぶれることなく私ごときに振り回わされることが微塵もないので、寂しさを感じることが多々ある。

 

しかし御仁と対峙する中で、次第にあることに気づいた。それは御仁が私に振り回されることなく、常に御仁らしく在るということに、私はとても安心感を覚えていたのだ。常にぶれずにそこに存在してくれていることに、とても安らぎを感じるという不思議な感覚である。このような感覚を持てたのも、私のACからの回復の過程なのかもしれない。なぜなら以前の私なら思い通りにいかない相手は、ゼロか百かという基準でばっさりとゼロに切り捨ててしまっていたから。しかし、御仁はこれまで私が出会ったことがない人物であり、敬愛するが故にゼロに切り捨てることができない、切り捨てたくない。わたしは御仁のような人間でありたいと願っており、そのような人間になるためには御仁との関係の中で生じるしんどさを乗り越えることこそが修行のように思える。そんな貴重な出逢いに心より感謝している。