吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

次のステージに

他者とのやり取りに生じたモヤモヤを

見つめてみた

 

原因はやはり私自身の承認欲求だった

 

承認欲求は捨てなければと知っていたのにと

自分を責めたくなる

 

いやまてよ

 

もう少し前は自分を責めてばかりいた

こんな私は、他者から批判されてるはずと

自己否定していた

 

それに比べたら、承認欲求は

私を認めてくれるはず

私を認めて欲しいと

自己肯定の上で他者に差出している

 

だとすれば、自己否定の段階を抜けだしたのではないか

 

次のステージに上がってるのではないか

案外ええじゃないか自分

 

亀の歩みで少しずつであっても

時に戻り道しても

次のステージに向かうのだ

 

自己否定を手放せた今

自分の承認を人に委ねるのをやめ

私が私を承認する

 

いいぞ自分!

正しさの鎧

自分を守る為に

正しさを追いかけてきた

 

普段は他人が恐いけれど

正しさがあれば強気になれた

 

けれど今は…

 

正しさが自分をイライラさせる

正しさが自分を責める

 

 

正しさの鎧はもう要らないかも

 

でも捨てなきゃと思うと、

捨てられない自分を責めてしまう

 

ではこうしよう

正しさの鎧が私を守る為に必要な時は使う

正しさの鎧が私を苦しめる時は放す

 

正しさの鎧は使っても、使わなくてもなくどちらもOK

 

その時々て自分で選びたい方を選べばよい

 

選びたいという私の望みこそ正しい

気の済むように生きよう

 

 

 

 

 

自分を労わる

人の役に立つことで自分の存在価値を見出してきた。

 

けれど自分を蔑ろにして人の世話をすることに疲れ果てた。

 

それで老婆心を手放そうと決めた。

 

しかし、人の世話をやめてみたら、

自分が、何もしないすごく悪い人間に見られてる気がしたり、冷たい人間ではないか自分が感じたりする。

 

罪悪感…。しんどい…。

 

まあ、まあ、そんな自分もよかろう。

何十年も染み付いた世話焼を、

瞬時に手放すなんて無理だよ貴方。

 

手放そうと努力しながら、

罪悪感を感じて、しんどいなって感じる貴方が愛おしいわ。

 

自分を労わるよ。

ゆっくり休め。

また明日…。

承認ではなく成果

AC的に、老婆心で人の世話を焼いてしまう癖がある

 

世話焼きの挙げ句の果てに、自分がぼろぼろになっていたり、自分のことが棚上げになっていることがある

 

最近は、老婆心を手放そうと意識している

 

しかし気づけば、またやってしまったという反省の繰り返しである

 

そこで改めて、一体、老婆心とはなんだろうかと考えてみる

 

老婆心で誰が幸せになれたのだろうか。

老婆心ってよくないことだろうか。

老婆心で、私が得たものはなんだろうか。

 

人の世話を焼いて、成果がもたらされたら私が嬉しい。

しかもその人に感謝されたら、さらに私が嬉しい。

 

どうやら老婆心から私が得るものには成果と承認の2つがありそうだ。

 

さらに成果を深掘りしてみる

どうやら2種類ありそうだ。

 

ひとつは、その人にとっての成果

もうひとつは、私自身が欲する成果

 

 

私が手放すべきは、他人の領域で自分を消耗するような老婆心

 

私は私自身が欲する成果に注力すればよいのだ

 

私自身が欲する成果は、達成すればその人も喜ぶかもしれないが、

もしその人からの感謝や承認がなくてもどうでもよくて、

何より私自身が嬉しくなるものだ

 

もはやそれは老婆心とも呼ばないのかもしれない

 

私が求めるのは、承認ではなく成果である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族に甘えるとは

家族なんだから甘えればいいという考え

 

家族といえども互いに自立して適度な距離をという考え

 

いろいろと場面で異なるとは思いはするが、

家族に甘えるとはどういうことなのか…。

 

その匙加減がよくわからない

 

甘えたいのに甘えれない子ども時代を過ごした結果、今でも上手く甘えられない

 

それが苦しくて、高校卒業してすぐ家を出た

 

側から見ると、それだけ自立心が旺盛と見えたかもしれないが、実は素直に甘えられないだけで、依存心が人一倍強いのかもしれない

 

今日は久しぶりに実家に帰り過ごしたことで、そんな自分の気持ちに気づいた

 

気づいた瞬間、そんな自分はダメだーといつもの悪い癖が出そうになる

 

けれどすぐさま、自己批判を手放す

 

こんないじけた自分を抱きしめてあげたい

 

よく頑張ったぞ自分

 

不器用で、無理して頑張っちゃって、

結局いじけちゃう貴女も大好きよ

人を自分より上に置かない

17年来の友人と1年ぶりに仕事について語りあった。

 

この友人はとても頭のよくて、そのアイデアにいつも感心させられるが、しばしば言動がきつく、こちらが批判されているような不快感を感じることがある。

 

実際、過去に一緒に働いた職場の人間関係で、しばしば摩擦を起こすことがあった。

 

このような摩擦の要因を私は以下のように分析していた。

 

友人は、頭が良いために多くの人が予測できないような問題点や解決策が見えて、そのことを人々に提案する。

 

友人は頭がよいために人々が予測できないことが理解できないので、いらいらしたり、やや上から目線となりがちであり、人々が不快を感じる。

 

言っていることは正しいが、人々は不快な感情を抱えているために、解決策への取り組みに抵抗する。

 

私自身はというと。

自分の心の不快は我慢して、友人の提案が立派だと感心して、必死に実現のために努力していた。

それに人々が理解できないのは、あなたの頭が良すぎるからだよと言って、自分は友人のよき理解者としてふるまっていた。

 

私は何度もこの友人に助けてもらった。

私にとってこの友人は、今でも大切な存在である。

おそらく、この友人に自分と同じような心の傷を感じるているのだろうと思う。

 

この人は、一見、自信たっぷりに上から目線であるけれども、内面は繊細で、人々との摩擦に対して傷ついていること、不器用で人々に誤解されるが、根は優しいということを知っているからだ。

 

しかし、今回久しぶりに友人と会って、話している間は、相変わらずの友人の発想に感心し、きつい言葉に傷ついていた。

帰宅後も、友人の言うようなことが出来ていない自分をだめだなと批判したり、友人の言うように頑張らなければと叱咤激励していた。

 

しかしその後、ふと気づいた。

 

何でそんなに傷ついているの私?

何でそんなに自分を責めているの?

友人の言うように出来ていない私じゃだめなの?

 

いやそんなことはない。

この友人を自分より上に置いて、自分を蔑ろにするのは間違っている。

 

この友人が頭がよいことが事実であったとしても、自分を下に見る必要はない。

この友人のややきつい態度や言動に対して、それは私自身が未熟だからだと自分を批判する必要はない。

私は自分の考えを否定して、この友人の意見を採用する必要はない。

 

このことに気づくために、久しぶりにこの友人に会うことになったかもとすら思う。

17年もかかったが、それに気づけるほどに自分は回復してきたのだ。

 

相変わらず頭脳明晰で、ちょっときつい友人だが、それはそれでいいと思う。

これからも大切にしたい存在であり、友人の幸せを心から祈る。

 

不器用ながらも自分なりに進んでいる自分、それはそれでいいと思う。

これからも自分を大切にして、自分の幸せを心から祈る。

 

私たちは、互いの存在を大切にしながら、それぞれの道を往けばいい。

 

友人に感謝。

 

 

 

恐れながら進む

以前の私は様々な出来事を記念日にして、御仁にメッセージを送っていた。

 

記念日を分かち合いたいというより、普段離れてるため、SNS上で戯れたいというのもあるし、過去を懐かしむのが好きなのだ。

 

そんな私の戯れに、御仁はそれなりに付き合ってくれた。

しかし御仁は、過去は過ぎたこと、記念日は好かんと発言した。

 

それから私は、御仁の機嫌を損ねたくないために記念日を気軽に扱わないようになった。

 

以前なら、誕生日に「今日は何の日か覚えてますか?」と迫っていたが、その後は誕生日をスルーされても平気なふりをした。

内心は見捨てられる傷が疼いていた。

 

でも久しぶりに今日の記念日はメッセージしたい気持ちだった。

でも機嫌を損ねるのは恐い。

 

相変わらず、見捨てられる傷が疼いている。

 

姉は、送ればいいじゃない、そういう気持ちなんだからと言った。

 

姉の助言から、「そうか、送っていいのか」と考え、その後、「送りたいって思ってるなら、送らなきゃ」というプレッシャーに変わる。

 

恐れが邪魔して何が自分の欲求なのかわからなくなった。

 

そして思った。

 

あなた…

相変わらずもやもやするのね。

まだ恐いのね。

でも記念日が好きなよね。

 

 

よし!

恐れてる自分でいいよ。

恐れながら行動できる。

 

さあ、行くよ!

恐れを味わいながら、進む。