吾唯足知 うさこの独り言

自分の声を聴く・・・

家族に甘えるとは

家族なんだから甘えればいいという考え

 

家族といえども互いに自立して適度な距離をという考え

 

いろいろと場面で異なるとは思いはするが、

家族に甘えるとはどういうことなのか…。

 

その匙加減がよくわからない

 

甘えたいのに甘えれない子ども時代を過ごした結果、今でも上手く甘えられない

 

それが苦しくて、高校卒業してすぐ家を出た

 

側から見ると、それだけ自立心が旺盛と見えたかもしれないが、実は素直に甘えられないだけで、依存心が人一倍強いのかもしれない

 

今日は久しぶりに実家に帰り過ごしたことで、そんな自分の気持ちに気づいた

 

気づいた瞬間、そんな自分はダメだーといつもの悪い癖が出そうになる

 

けれどすぐさま、自己批判を手放す

 

こんないじけた自分を抱きしめてあげたい

 

よく頑張ったぞ自分

 

不器用で、無理して頑張っちゃって、

結局いじけちゃう貴女も大好きよ

人を自分より上に置かない

17年来の友人と1年ぶりに仕事について語りあった。

 

この友人はとても頭のよくて、そのアイデアにいつも感心させられるが、しばしば言動がきつく、こちらが批判されているような不快感を感じることがある。

 

実際、過去に一緒に働いた職場の人間関係で、しばしば摩擦を起こすことがあった。

 

このような摩擦の要因を私は以下のように分析していた。

 

友人は、頭が良いために多くの人が予測できないような問題点や解決策が見えて、そのことを人々に提案する。

 

友人は頭がよいために人々が予測できないことが理解できないので、いらいらしたり、やや上から目線となりがちであり、人々が不快を感じる。

 

言っていることは正しいが、人々は不快な感情を抱えているために、解決策への取り組みに抵抗する。

 

私自身はというと。

自分の心の不快は我慢して、友人の提案が立派だと感心して、必死に実現のために努力していた。

それに人々が理解できないのは、あなたの頭が良すぎるからだよと言って、自分は友人のよき理解者としてふるまっていた。

 

私は何度もこの友人に助けてもらった。

私にとってこの友人は、今でも大切な存在である。

おそらく、この友人に自分と同じような心の傷を感じるているのだろうと思う。

 

この人は、一見、自信たっぷりに上から目線であるけれども、内面は繊細で、人々との摩擦に対して傷ついていること、不器用で人々に誤解されるが、根は優しいということを知っているからだ。

 

しかし、今回久しぶりに友人と会って、話している間は、相変わらずの友人の発想に感心し、きつい言葉に傷ついていた。

帰宅後も、友人の言うようなことが出来ていない自分をだめだなと批判したり、友人の言うように頑張らなければと叱咤激励していた。

 

しかしその後、ふと気づいた。

 

何でそんなに傷ついているの私?

何でそんなに自分を責めているの?

友人の言うように出来ていない私じゃだめなの?

 

いやそんなことはない。

この友人を自分より上に置いて、自分を蔑ろにするのは間違っている。

 

この友人が頭がよいことが事実であったとしても、自分を下に見る必要はない。

この友人のややきつい態度や言動に対して、それは私自身が未熟だからだと自分を批判する必要はない。

私は自分の考えを否定して、この友人の意見を採用する必要はない。

 

このことに気づくために、久しぶりにこの友人に会うことになったかもとすら思う。

17年もかかったが、それに気づけるほどに自分は回復してきたのだ。

 

相変わらず頭脳明晰で、ちょっときつい友人だが、それはそれでいいと思う。

これからも大切にしたい存在であり、友人の幸せを心から祈る。

 

不器用ながらも自分なりに進んでいる自分、それはそれでいいと思う。

これからも自分を大切にして、自分の幸せを心から祈る。

 

私たちは、互いの存在を大切にしながら、それぞれの道を往けばいい。

 

友人に感謝。

 

 

 

恐れながら進む

以前の私は様々な出来事を記念日にして、御仁にメッセージを送っていた。

 

記念日を分かち合いたいというより、普段離れてるため、SNS上で戯れたいというのもあるし、過去を懐かしむのが好きなのだ。

 

そんな私の戯れに、御仁はそれなりに付き合ってくれた。

しかし御仁は、過去は過ぎたこと、記念日は好かんと発言した。

 

それから私は、御仁の機嫌を損ねたくないために記念日を気軽に扱わないようになった。

 

以前なら、誕生日に「今日は何の日か覚えてますか?」と迫っていたが、その後は誕生日をスルーされても平気なふりをした。

内心は見捨てられる傷が疼いていた。

 

でも久しぶりに今日の記念日はメッセージしたい気持ちだった。

でも機嫌を損ねるのは恐い。

 

相変わらず、見捨てられる傷が疼いている。

 

姉は、送ればいいじゃない、そういう気持ちなんだからと言った。

 

姉の助言から、「そうか、送っていいのか」と考え、その後、「送りたいって思ってるなら、送らなきゃ」というプレッシャーに変わる。

 

恐れが邪魔して何が自分の欲求なのかわからなくなった。

 

そして思った。

 

あなた…

相変わらずもやもやするのね。

まだ恐いのね。

でも記念日が好きなよね。

 

 

よし!

恐れてる自分でいいよ。

恐れながら行動できる。

 

さあ、行くよ!

恐れを味わいながら、進む。

 

もやもやサイン

今日は久しぶりに、

他人の顔色から悪い妄想がわき、もやもやした。

 

あのことを怒ってるのかな。

あのことを誤解してるのかな。

裏で悪口言われてるかも。

etc…。

 

おっと

これらは他者に関する妄想だ

ではでは自分はどうなのか自分に問うてみよ

 

自分の行動にまったく悔いなし

 

ということなの放っておこう

 

もやもやサインは

自分に対するOKの知らせだった

 

 

 

 

変わらなくていい

ずっとずっと努力してきた

今のままじゃだめだ

 

もっと立派な人間に

もっと冷静な人間に

もっと賢く

 

 

もっと、もっと、もっと…

 

今のままじゃだめですか?

何故だめなんですか?

誰に言われたのですか?

その人の言う通り変わらなければ、どうなるのですか?

誰に迷惑かけるのですか?

 

 

もういいじゃないですか?

 

くよくよしたって

いらいらしたって

やきもちやいたって

拗ねたって

 

他人に当たり散らすわけじゃない

迷惑かけるでもない

 

私の内側では、自由なはず

好き勝手でいい

 

もう

 

変わろうとしません

どんな自分もただそのまま眺めてます

 

受け止めるとか、受け入れるとか、

それさえも、もうややこしくてわかりません

 

ただ自分を眺めてます

そうしたいと思います

 

変わらなくたっていい

 

 

他人を通して自分に出逢う

私がACの自分について話せる人は、実姉と友人との2人くらいだ。

実姉には、日常で事ある度に話を聞いてもらうことがある。

しかし私自身の日常が最近落ち着いていたので、AC的側面で話す機会はあまりなかった。

 

今日初めてオンラインでACの当事者と話す機会があった。

私が自分の体験を話す時、自分の声が一瞬震え、涙声になりそうだった。

そうなった自分に自分が驚いた。

 

最近はAC的話をしなかったために、その存在を隅に追いやってしまっていただけ、

でもいたんだよね貴方、

悲しかった貴方、

怖かった貴方、

泣いてた貴方、

震えてた貴方、

怯えてた貴方

寂しかった貴方、

 

ごめんね。

 

貴方のこと大切にしてなかった

大丈夫。

貴方がいることわかったよ。

貴方が大好きだよ。

貴方が大切だよ。

大丈夫。

安心して。

怖がらなくて大丈夫。

私が貴方を守るからね。

どんな時も。

 

他人との会話を通して、私の中の子どもに久しぶり逢えたことに感謝。

 

貴方、来てくれてありがとう。

また逢おう。

 

感情を俯瞰する力

「 他者 の 願望・期待 を 読み取り、 それ に 合致するよう生きようと常に努力し続ける こと」

 

斎藤学氏は共依存をこのように定義した。

なんと適格に私のことを表している表現だろうかと、思わずうなってしまう。

 

常に他者の願望・期待を読み取る癖がある自分は、その時々の感情が、実は自分のものではなく、他者のものであることがある。

それが理解できたのは、共依存に関する知識を得たからであるのだが、

知識として知っているということと、自分と他者の感情が区別できるかどうかというのは別の話だ。

 

私は常に事象を俯瞰してとらえることができるようになりたいと思い努力してきたが、自分に何度問うても、わからない時も多い。

 

それって自分の気持ち?

それともあの人の期待をかなえたいからなの?

期待をかなえたいというのも私の気持ちということでいいのかな?

自分は本当はどうしたいのかな?

 

???

 

そもそも他者の期待に応えたいというのは、人間のもつ自然な気持ちなので、良いも悪いもないが、共依存の場合はそこに自己犠牲的な無理な行動があったりということである。

 

私が共依存についての知識を持ったら持ったで、

他者の期待に応えようとしている自分は間違っているというジャッジを下しているのかもしれない。

 

ささいなLINEのやりとりでさえ、

御仁からしばらく連絡ないからコンタクトしたいな・・・

でも自分から連絡しないで、御仁に合わせて待てる自分になりたい気もする・・・

その方がカッコいい気がするし・・・

でも連絡こなかったら寂しいな・・・

でも私から連絡しないと御仁が心配するかもしれないし・・・

 

???

 

もうわからんです。

 

でも

御仁が心配するかも

御仁が寂しがるかも

御仁が・・・

御仁が・・・

 

こんな風に他者の気持ちの心配が出てきたときは、

たいていその主語を自分に置き換える方が妥当なことがわかってきた

 

御仁がじゃなくて

私が心配なんだ

私が寂しいんだ

 

他者のではなく、そんな私の感情を私が感じてあげようと思う

 

え、それ本当に他者の気持ち?

それって私の気持ちなのでは?

私はどう感じる?

どうしたら嬉しい?

 

 

そんな風に、感情を俯瞰していく力が少しずつついてきた

もっともっと自分の感情を大切に眺めてみよう

 

怒りや不安、もやもやした中にこそ、

自分の大切な気持ち

怯えて縮こまったり、泣いている、インナーチャイルドがいる

 

今日はLINEをしないで、

自分のもやもやをよくよく眺めて、

インナーチャイルドが顔を出したら、

ぎゅっと抱きしめてあげようと思う

 

誰よりも誰よりも

貴方が大好きだよ

安心して一緒に眠ろう